俳誌 「鬼怒」の編集などを携わっていた石倉夏生さんが、句集『バビルーサの牙』を

刊行した。その各章の五句選は下記のとおり。


片片(昭和五十八年~昭和六十二年)

樹の上に次郎三郎夏の雲

いなびかり長女は怯え次女は跳ね

三鬼や不意にライオン起きあがる

野火の焔の奥に三鬼の水枕

ひろしま忌蛇口の一つ上を向き

点点(昭和六十三年~平成四年)

野火の焔に悟空沙悟浄猪八戒

自転車に葱を括りて極楽へ

大粒の室の八島のかたつむり

逃水や西行芭蕉山頭火

枯野にて省略されし二人かな


云云(平成五年~平成九年)

にんげんが縮んでゆくよ青葦原

何を書くか木曽の木橋の秋の暮

十二月犀の細部を見に行かむ

初夢や全身の朱の鱗かな

定年の爛々と見ゆ烏瓜

念念(平成十年~平成十三年)

すべて虚の中のできごと去年今年

人間を眺め厭きたる冬木かな

ゆびきりが嘘のはじまり遠霞

絵の具のやうに言葉押し出す枯木山

潤みたる眼をのこし冬没日

昏昏(平成十四年~平成十五年)

濃く昏く川現るる昼寝かな

羽抜鳥とろとろと基督の夢

五月わが精神にある暗渠かな

白鳥の一羽が寺山修司らし

昭和とは西日を浴びし景ばかり

現現(平成十六年~平成十七年)

人通るたび春泥の笑ひゐる

目に耳に口に桜の咲きはじむ

眼の乾き脳裏の乾き亀鳴けり

身のうちに鬱の点在へびいちご

しもやけのうすももいろの昭和かな

瞬瞬(平成十八年~平成十九年)

野に遊び海より来たる雨に遭う

噴水は永久に白髪且つ怒髪

竹馬の兄が昭和を跨ぎ来し

闇に降る雪の疾さの昭和かな

バリカンの昭和の痛み麦の秋

この夏生さんの句集に接して、

随分前にアップした高柳重信のものなどを思い起していた。


○ 泣癖の

  わが幼年の背を揺すり

  激しく尿る

  若き叔母上

 高柳重信の『蒙塵』所収の「三十一字歌」と題する中の一句である。「五・十二・七・七」のリズムである。このリズムは、「五・七・五・七・七」の短歌のそれを意識したものであろう。

これが俳句なのであろうか? どうにも疑問符がついてしまうのである。ただ一つ、重信は「定型破壊者」ではなく、極めて、「定型擁護者」と言い得るのではなかろうか。この意味において、自由律俳人の「自由律」と正反対の、いわば「外在律」に因って立つところ作家ということなのである。それと、もう一つ、この『蒙塵』という句(多行式)集の制作意図があって、それは「王・王妃・伯爵・道化・兵士達のドラマ」仕立ての中での、その場面・場面の描写というような位置づけで、これらの句がちりばめられているようなのである(高橋龍稿「俳句という偽書」)。すなわち、俳諧論の「虚実論」の「虚(ドラマ)の虚の句(多行式)」ということなのである。これらのことについて、高橋龍さんは次のとおり続ける。「今日、正あるいは真とされるものは、十八世紀末の啓蒙主義、十九世紀以降の科学主義がもたらした大いなる錯覚にすぎない。正と偽は、同一舞台に背中合わせに飾られた第一場と第二場の大道具のごときもので、『正』という第一場を暗転させるのが詩人の仕事である。高柳さんはいちはやく第二場『偽』の住人となり、さらに奈落に下り立って懸命に舞台を廻そうとした人であった。それを念うと、子規以降のいわゆる伝統俳人の営みは、折角の『偽書』を『正書』に仕立て直そうとするはかない努力であったような気がしてならない」。その意味するところのものは十全ではないけれども、要する、「高柳重信の多行式俳句の世界は、日常の世界から発生するのではなく、その異次元の『偽』の世界であり、『虚』の世界のもの」という理解のように思われる。

 そして、高橋龍さんがいわれる「子規以降の伝統俳人の営み」は「実(現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」という営みであって、高柳重信の世界は、「虚(非現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」、その営みであったということを、高橋龍さんは指摘したかったのではなかろうか。とにもかくにも、高柳重信の多行式俳句の理解については、これらの「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」との、この二方向から見定める必要があるように思われるのである。

 この「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」ということについて、この夏生さんの句集の、山崎聡さんの「帯文」と、何かしら

重なるものを感じたのであった。