⑳「芭蕉曼陀羅」をめぐる謎(その三)                     


○天安門掃かれてありし十三夜(黒田杏子)                     


石田の「栃木俳句会・月々のことば」は、この句より始まる。そして、それは、昭和六十三年三月のことであった。石田と黒田との作句姿勢は、百八十度相違するといえるでろう。石田は、前の鈴木六林男らのそれに近いであろうし、そして、黒田のそれは、その六林男らとは最も離れた位置で句作りをしているということになろう。  

いわば、「芭蕉曼陀羅」の世界でいえば、石田・鈴木は、「不易流行」のその「流行」(刻々の変化の兆し)に重きを置き、そして、黒田は「不易」(変わらざるもの)に重きを置いているといえるし、そして、それだけの距離があるということになろう。     

例えば、黒田と同じ「天安門」でも、石田は、次のような問題意識を持っているのである。

「『いま天安門流血事件の俳句詠出の可否について朝日新聞の日曜版を賑わしており、稲畑汀子、上田五千石両氏の否定論、川名大氏の賛成論、金子兜太氏の中間論で幕が引かれようとしているが、ここに一人、熱血の叫びをあげるのは西川撤郎氏である。『私(注・西川撤郎)は、すなわちこの詩型を以て絶叫する死者と生者の(広場)・・・人生という名の苦闘の現場へ直参したい。今も正しく流血し続けて止むことのない、この苦悩と現身とを根拠として何処までも書き続けてゆこう。(略) 果してあなたは、引き裂かれた死者と生者の眼の中の(広場)を未だ花鳥の美意識を以て散策しようとするのであろうか。』              

この俳壇のアウトロー西川撤郎の叫びに、私(注・石田)は耳を傾けざるを得ない心情に在る」(平成元・一〇)。         

かって、「社会性俳句」を経験した者、そして、現に「社会性俳句」に関心がある者は、この西川撤郎の主張に、石田と同じように耳を傾けるであろう。しかし、アンチ「社会性俳句」の人達は、この西川撤郎の叫びに完全に無関心を装うであろう。そして、黒田は、この後者の立場を選択するのではなかろうか。そして、それは、決して、西川撤郎のいうように、黒田は「花鳥の美意識を以て散策しようとしている」ためなのではなく、黒田の私性(自然讃歌・人間讃歌)と詩性(感性的な詩心)とが、「人生という名の苦闘の現場へ直参したい」という衝動を抑え、そして、いわゆる「社会性俳句」的発想が、その黒田にとっては、五七五のリズムになって出てこないということなのであろう。   
 そして、このような黒田らの作句姿勢について、西川撤郎らは、「自分が生を置いている、この社会という現実」を直視していないという批判をすることは、かっての「社会性俳句」をめぐっての論議と軌を一にするものがあろう。                

それ以上に、かって、桑原武夫が、その「第二芸術論」に関連して、「芭蕉は世外的・隠遁的な風雅の道とつながりがあり、それが民主化を妨げる」(『俳文学大辞典』)としたという指摘をも思い起こさせる。     

これまた、黒田杏子俳句の来し方と行く末を見据えながら、これらの「芭蕉曼陀羅」ををめぐるミステリーに想いをめぐらすことも、俳諧(連句・俳句・川柳)に興味の抱いている者にとって、避けては通れないことなのかも知れない。              

それにしても、栃木俳壇にとっては、かっての平畑静塔に続いて、さらに、この黒田杏子を擁しているということは、大変に幸せなことなのだということも付記する必要があろう。                                      


21「芭蕉曼陀羅」をめぐる謎(その四)                     


○涅槃図の中より出でて去る思ひ(平畑静塔)                     


「掲句は『鉾』主宰の山口超心鬼氏が『竹柏』の中から感銘句としてあげた一句である。作者自身を、涅槃図の中で嘆き悲しむ鳥獣の一員と見立てた俳諧味を高く賞揚していた。先生(注・平畑静塔)は『見立て俳句』の名手であるが、この句の面白さを表面化した従来の比喩とは違って、遠い眼差しの感じられる言葉のあっせんで、生きることの悲しみが惻と感じられる」(平成七・七)。    


かって、下野新聞(平成八・二・六)で、岡本勇の「長いこと平畑静塔、手塚七木の両先生に学んで参りました。そして『静塔愛』の琴線に触れることができ、また七木俳句からは『美の世界』に趙遙(ちょうよう)させていただきました。そして今、杏子(注・黒田杏子)先生のまだ見えざる俳句には、端緒を開いたばかりであります」という一文に接したことがある。             

たしかに、静塔の戦前の『月下の俘虜』から今日の『竹柏』までの、永いその俳句人生において、終始一貫して静塔俳句を支えていたものは、確かに「(人間)愛」だったのかも知れない。そして、それは、静塔らが山口誓子を抱いて「天狼」で一時期展開した「根源俳句」というものとだぶらせた場合、「作句する根源において『愛』を置く」ということになるのかも知れない。              

そして、静塔俳句が「愛」を秘めたものとして、七木俳句は「美」を秘めたものであろうか。このことについては、先ほど、西川撤郎の「花鳥の美意識を以て散策しようとしている」という言葉を思う時、その「美」という言葉は避けたいような衝動を覚える。   

とすれば、七木俳句は「詩眼」を秘めているという言葉が相応しいかも知れない。静塔俳句は、「作句する根源において『愛』を置き」、そして、七木俳句は、「作句する眼に『詩眼』が宿っている」と、このように、先ほどの岡本勇の言葉を置き代えた時、つくづくと、両者の、永い永い俳句人生が眼前に拡がってくるのを覚えるのである。そして、岡本勇が「黒田杏子のまだ見えざる俳句」という言葉に接する時、「杏子俳句の究極は『人間肯定の俳句』」という言葉を呈したくなる衝動を覚えるのである。    

これまた、静塔・七木、そして、さまざまな、栃木俳壇の面々の俳句の来し方と行く末を見据えながら、これまでの、さまざまなミステリーに思いを馳せる時、これこそが、即、「芭蕉曼陀羅」のミステリーかと、その堂々巡りの原点にいる自分を思い知るのであった。ここは、ともかく、この原点を確認したことを以て良しとして、何時の日か、これらの「芭蕉曼陀羅」のミステリーに挑戦する日々を心に秘めることといたしたい。                        


22「芭蕉曼陀羅」をめぐる謎(その五)                     


○やませ来るいたちのやうにしなやかに   (佐藤鬼房) 


この佐藤鬼房の句について、石田は「東北という、辺境という、蝦夷の末裔という、彼(注・佐藤鬼房)の精神世界を育んできた反骨・反逆の意識が、東北の風土に根ざし、そこに生きる人間風景を照準とし、ひいては歴史的風土をみずからの視座に取り込み、重層で強靱な精神世界を確立したのである」という賛辞を呈している(平成五・五)。   

○熊食えと押しつけがましからざるや    (茨木和生) 


この茨木和生の句について、石田は「掲出の作品は奇想天外、しかもこれが絵空事でなく鮮烈な臨場感を漂わせている。痛快極まる作品といえよう。繊細にまとめられた作品の氾濫する現在、したたかで野太い和生俳句の希少性は高く評価されるべきではなかろうか」との評を下している(平成四・一)。  

○椿の花いきなり数を廃棄せり       (安井浩司)


 この安井浩司の句について、石田は、豊口陽子の次のような評を引用しながら、その豊口の「おそらく二十一世紀の俳句は安井浩司を基盤として始まるだろう」という展望を、ある期待感を持ちながら、その展開に注目をし続けるのである。        

「私(注・豊口陽子)はただ安井浩司の難解性の中に無抵抗なかたちで身を委ねてきた。それは、よくわからないながらも安井浩司の作品の中に何か魂を慰め、鎮め、あるいは発揚させるものを感じ取ったからにほかならない。海におぼれたとき、もがけば沈むが、水に身を委ねると浮くことができるように、私は安井浩司の難解といわれる海に身を委ねつ

つ、少しずつ見えてくるものを感じる」(平成七・八)。

 これらの、老練な佐藤鬼房らの世界も、そして、新進気鋭の茨木和生や安井浩司らの世界も、もう、何故か、先ほどの「芭蕉曼陀羅」のミステリーの、その堂々巡りの一つのように思えてきて、これ以上続けることは、苦痛にさえ思えるようになってきた。しかし、その苦痛を抑えながら、ここで、一つだけ言及しておかなくてはならないことがあろう。                

 例えば、佐藤鬼房らの「風土性に根ざした人間諷詠的なもの」の、この「人間諷詠」ということは、いわゆる「俳句」とは別世界を構成している「川柳」の世界で、最も、重点的に、その句材としてきたものであった。鬼房は、最も「川柳」とは遠い距離にあるような俳人に思われがちであるが、若手の「川柳」作家達は、この鬼房の世界から、数多くの成果品を吸収すべき未曾有の隠れ遺産が埋蔵しているように思えるのである。    

そして、そのことは、「月の夜へけものを放ち深く眠る(大西泰世)」らの若手の川柳作家らの句に、冒頭の鬼房の「反骨・反逆」の匂いが秘められており、鬼房を知ることによって、更に、それらは強靱なものとなるように思えるてならないのである。

 これと同じように、新進気鋭の茨木和生や安井浩司の俳句作家は、それが、「奇想天外な野趣味」といい、「難解極まりない呪術性俳句」といい、例えば、新興川柳運動の闘士・田中五郎八などの、「欠伸したその瞬間が宇宙です」の、この痛快極まりのない「生命の果ての一瞬」の「ユーモラス」なような把握の仕方を身につけたら、どんな未知なる世界が開けるものかと、そんな無い物ねだりをしたい願望にとらわれているのである。即ち、「俳句は川柳」を、「川柳は俳句」を、今こそ学ぶ時が来たのではなかろうかという思いがするのである。     

 そして、その俳句と川柳との生みの親の「連句」の興隆も確かなものとなってきた今日にあって、「連句・俳句・川柳」の、この三つの短詩型文学の切磋琢磨の時代こそ、来るべき、二十一世紀における、それらの未来像であるという予感がするのである。     


石田の「栃木俳句会・月々のことば」には、即ち、その昭和六十三年から平成七年までの十年間の石田の軌跡において、「連句」に関しての記述は見られるが、こと、「川柳」に関しての記述は見られない。いや、一か所次のような記述が見られる。「時実新子氏の言葉を借りれば『俳句ってこんなにシーンと、ただシーンとするだけで、心が波立たないものなのか』」(平成三・二)。                   


この時実新子は、今、川柳界で最も一般の人に知られている女流柳人の名であろう。  このささやかな「さまざまなミステリー」の最後にあって、そして、この「芭蕉曼陀羅のミステリー」の最後ににあって、この「俳句ってこんなにシーンと、ただシーンとするだけで、心が波立たないものなのか」という、その時実新子の言葉を最後にして、ひとまず了とすることといたしたい。

註 初出は、「石田よし宏『鷹』十一年」については、「鬼怒」平成三年六・八・九月号。

そして、「栃木俳句会・月々のことば」については、ホームページ「南郷庵通信」に登載していたものを改訂して、それを一つの稿とした。