⑯ 「類想句」・「類句」などをめぐる謎

  

「朝日新聞の『俳壇時評』に稲畑汀子氏が『他人のアイディアをもらって出来た俳句は自分の作品とは言えない』と述べている。掲句(注・「長いものにまかれ着ぶくれゐたりけり(石原八束)」は、最近出版された石原八束句集『幻生花』の一句であるが、『長いものにまかれる』という比喩は、既に一般に使われており、八束氏が独自に開拓した言葉ではない。だから汀子氏の言を借りれば、この句は八束氏の作品ではないということになる。八束氏は、この程度の借用なら許されると判断したに違いない。あるいはそのような意識もなく一句を成したのかもしれぬ」(平成六・一〇)。              


この種の、「類想句」・「類句」などをめぐるものが、何箇所(平成六・九、平成六・一一)か目にする。このことは、選句を担当している俳人が、いかに、「類想句」・「類句」・「盗句」などに神経を尖らせているかを物語るものであろう。                 

これらのことに関して、前の、「集団創作」と「個人創作」とをめぐる謎のところで見てきたとおり、古歌の一部を取り入れ余情を豊かにする「本歌取り」というのは、日本の文学史上、その有効な修辞法の一つとして認められたものであり、非難されるべき何ものでもなかった。そして、芭蕉の蕉門の俳諧(連句・発句)では、その『去来抄』などで、「本歌を一段すり上げ」ること、即ち、「本歌以上の働きを発揮すべきこと」が強調されていた。  


○道のべの清水ながるる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ(西行) 

○道のべの木槿は馬にくはれけり(芭蕉) 

○道ばたの木槿は馬にくはれけり     

○道の端の木槿は馬にくはれけり      


この芭蕉の「道のべの木槿は馬にくはれけり」の「道のべの」は、「道ばたの」でもなく「道の端の」でもなく、この「道のべの」ということになると、これは、西行の、遊行柳での「道のべの清水ながるる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」の「本歌取り」ということになろう。そして、間違いなく、芭蕉のこの俳趣の世界は、西行のその和歌的世界と異質の世界を詠出しており、即ち、「本歌を一段すり上げ」ていることは一目瞭然であろう。ここで、「類想句(同巣)」とは、「作句の発想が類似している句」のことで、「類句(等類)」とは、「類想句が特にどの句と限らないのに対して、類句の場合は特定の句との類似に力点を置く」もので、「道ばたの」とか「道の端の」の句は、「類想句」ではなく、「類句」そのものということになろう。 そして、「盗作」とは、「他人の作品の一部または全部を自分の作品として発表することで、「道ばたの」とか「道の端の」の句を、自分の作として公表したら、それは「盗作」として、相手にされないことであろう。  

さて、冒頭の石原八束の「長いものにまかれ着ぶくれゐたりけり」は、「本歌取り」という「歌」からの連想ではなく、「長いものには巻かれろ」という「故事・諺」からの連想で「本説(ほんぜつ)取り」と呼ばれるものであろう。               

そして、この八束の句は、見事に「本説を一段すり上げ」ており、堂々とした俳趣のある一句ということになろう。        

また、冒頭の稲畑汀子の「他人のアイディアをもらって出来た俳句は自分の作品とは言えない」というのは、前の子規やラファエル・ベアマンと同じように、西洋的な個人主義的な文学観に基づくものであって、芭蕉以来の集団主義的文学観の、集団の相互の連想性=(共同的)創作という分野を大切にする俳諧の伝統を否定するものであって、伝統俳諧(俳句)を大切にする汀子の発言とは、とても思えない発言に思われてくる。      

やや、極論ではあるが、発想法のオズボーンのブレーン・ストーミング(頭脳の嵐)のように、「他人のアイディアに便乗しろ(他人の考えに誘発されて、いろいろと連想しろ)」ということは、「俳諧(連句・俳句・川柳)」の世界において、非常に重要なことと思われるのである。            

やはり、「集団創作」と「個人創作」とをめぐる謎と関連して、「類想句」・「類句」などをめぐるミステリーの検討も、非常に大切なことなのだということも指摘しておく必要があろう。                                  


⑰「類想句」と「新しみ」をめぐる謎                        


「類句を避け新鮮味を追えば、同じ土俵にのれないという淋しさ・しかも共通軸を設定した時点で後退が始まるのだという恐れ・それでも多様な俳歴の人間が同じ土俵で、がじゃがじゃやりたいとなれば、それらの不安や淋しさそのものを共通軸に再出発するほかない」(平成六・五)            

これは、現代俳句協会「青年部通信(一七号)」の平田栄一の「軸のない不安から」の中の一文ということである。ここの「類句を避け」は、厳密にいえば、「類句・類想句を避け」ということになり、どちらかといえば、「類想句」にウエートがある表現といえよう。「類想句」というのは、その発想が「総じて常套的・共通的・没個性的」などと同意義であり、「陳腐・二番煎じ・古くささ」などを感じさせる句のことである。       

この「類想句」の反意語が「新しみ」で、巧みな言語表現を身上とする俳諧(連句・俳句・川柳)にとって一番大切なものの一つである。芭蕉は、「此道(注・俳諧)は心・辞共に新味を以て命とす」(去来「不玉宛て」書簡)とまで断言したという(『俳文学大辞典』)。                   

この「新しみ」についても、石田は随所で触れており(平成元・八など)、石田ほどあからさまに「新を求める心」をその俳句信条の第一にしている俳人も希有とも思えるほどなのである。そして、その「新しみ」を希求すれば希求するほど、平田栄一のいうとおり「同じ土俵にのれないという淋しさ」を味わい、そして、それを逃れるために、「共通軸」を希求しょうとすれば、それまた、「後退が始まる」というジレンマが、常に、俳人にはつきまとうのである。即ち、「新しみ」を希求することも地獄の苦しみであり、「共通軸」を希求して、その結果「類想句」に堕してしまうことも、これまた、地獄の苦しみなのである。そして、同じ地獄の苦しみを味わうならば、創造的な「新しみ」の世界を目指すことこそ、俳人の取るべき道であろう。            

『三冊子』には、芭蕉の姿勢が鮮明に描かれている。               

「新しみは俳諧の花也。古きは花なくて木立ものふりたる心地せらる。亡師(注・芭蕉)つねに願ひに痩たまふも、此新しみの匂ひ也。その端を見知れる人を悦(よろこび)て、われも人も責められし(注・風雅の誠を追求する)也。新しみはつねにせむるがゆゑに一歩自然にすゝむ地より顕はるゝ(注・俳風は一歩も渋滞することなく、常に新しみを保つこととなる)也」。            

その芭蕉の、「風雅の誠を責めている」その姿は、次のような俳風と変遷となって現れる。                  


○岩つつじ染むる涙やほとぎ朱(す) 〔(貞門期)縁語、掛詞等の技巧による句作り。〕                ○阿蘭陀(おらんだ)も花に来にけり馬に鞍〔(談林期)奇抜な見立てを得意とする古典      

などのバロデイー的な句作り。〕                

○芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 〔(天和期)漢詩文を基調とし脱俗陰閑的境 地の句作り。〕            

○古池や蛙飛び込む水の音 〔(貞享期)漢詩文的基調を脱し和歌的伝統 を踏まえ俳趣味のある句作り。〕    

○夏草や兵どもが夢の跡 〔(猿蓑期)漂泊の歌枕巡礼の旅をとおして「不易流行」の思想を得て自然と人生の一 元的感合の絶唱としての句作り。〕   

○此秋は何で年寄る雲に鳥 〔(軽み期)あらゆる心の意匠を訣別し人生 の哀感を淡々とした日常的表現に託した句作り。〕                


ことほど左様に、芭蕉ほど「新しみ」を希求した俳人は、芭蕉の前にも、その後にも絶無なのである。それが故に、全ての俳諧(連句・俳句・川柳)の形相は、この芭蕉の足跡を探ることによって感知される。まさに、芭蕉曼陀羅の世界なのである。        

平田栄一が「軸のない不安から」と独白する時、それは、そのまま、ある時の、芭蕉の残映なのである。

全ての俳諧(連句・俳句・川柳)に携わる者は、すべからく、この芭蕉曼陀羅の世界、即ち、芭蕉曼陀羅のミステリーに挑戦を強いられているのである。                              


⑱「芭蕉曼陀羅」をめぐる謎(その一)                      


「夏石番矢氏から届いた演題が『アニミズムという背骨』。早速『カタカナ語の事典』を開いた。アニミズムとは『自然界のあらゆる事物に霊魂があると信ずること』とある。ただこれが我らの俳句とどういう関わりがあるのか、分からない。番矢氏にサブタイトルを求めて電話を入れたところ『より大きな伝統を求めて』というタイトルを頂いて、これなら分かる」。「戦後五十年とか正岡子規の俳句革新百年とか松尾芭蕉の奥の細道三百年とか、そういう俳句歳時記的な時間帯で考えるのではなく、縄文時代からの文化伝統を基礎にして、二十一世紀につながる俳句という姿で見直すべきでないかとの論旨である」(以上、平成七・九)。                 


この夏石番矢については、かの『俳文学大辞典』の中には、この夏石番矢の四字を見ることはできない。このことは、この大辞典を刊行した角川書店の前社長で俳人の角川春樹と反りがあわず、それで漏れてしまったのかも知れない。

 いや、それ以上に、夏石番矢は、この『俳文学大辞典』の、それこそ「俳諧という背骨』ともいうべき、松尾芭蕉の世界、即ち、「芭蕉曼陀羅」という世界を認知しておらず、それに代わるものとして「アニミズム俳諧曼陀羅」という世界を提唱しており、かの『俳文学大辞典』には馴染まない俳人として排斥されたのかも知れない。しかし、夏石番矢ほど、くそみそに排斥される一方、熱烈に歓迎されるている、若干四十歳代の新進気鋭の俳人(俳句実作家で俳句理論家)も見当たらないのである。     

 これは、何か理由があるのだろうか。これは、まさしく、前の「俳諧・俳句の新しみ」をめぐる謎と関係し、もし、本当に、「俳諧・俳句の新しみ」を希求するならば、それは、松尾芭蕉の世界、即ち、「芭蕉曼陀羅」という世界とは、別次元の世界での創作活動こそ望まれるべきものなのであろう。     

そして、そういう、夏石番矢的な、脱「芭蕉曼陀羅」、そして、同時に、夏石番矢的「アニミズム俳諧曼陀羅」という世界の樹立が可能なのかどうか、この壮大な試行が、成功するものなのかどうか、はたまた、セルバンテスのドンキホーテのように、茶番劇に終わってしまうものなのかどうか、これは、いまだ、その試行の途上であり、もう、しばらくその経過を見る必要があるのかも知れない。しかし、石田が掲出句(平成七・九)で挙げている「東方の虚空を思量できるか大杉」程度のものであれば、これは、やはり「芭蕉曼陀羅」の世界のものという印象なのであるが、同じ句集『巨石巨木学』でも、石田の、次のような掲出句(平成四・三)になると、夏石番矢的「アニミズム俳諧曼陀羅」という感じもしないでもないのである。  

○知彗桜黄金諸根轟轟悦予        

○花の窟に滅相もなき赤ん坊       

○襷石悉皆雲集極楽国士         

○榧の木不動わが影武者を消したまえ    


また、「アニミズムという背骨」あるいは「大きな伝統を求めて」というタイトルも、実に、脱「芭蕉曼陀羅」ということからして、的確なタイトルであり、前の、「アニミズム俳諧曼陀羅」と併せ、今後の、夏石番矢の動向には、格別の注目が必要になると思われる。即ち、「芭蕉曼陀羅」ををめぐるミステリーに対する、果敢な一つの挑戦を、来るべき二十一世紀を目指して、夏石番矢が試行していることに対して、大いなる拍手をおくりたいのである。     
                    

⑲「芭蕉曼陀羅」をめぐる謎(その二)                     


○対岸に芦刈るは元狙撃兵(鈴木六林男)                      


この鈴木六林男の句について、石田は次のような鑑賞文を寄せている。       

「『狙撃兵』とは、敵の指揮官や重火器の射手など重要目標を撃つため特に訓練され、研ぎ澄まされた神経と鋼鉄のような肉体が要求される非人間的な、ただならぬ存在である。その狙撃兵が、戦争のなくなった今はただ黙々と芦を刈っているというのだ。しかも見事なのは『対岸』という『場』の設定である。鈴木六林男にとって『狙撃兵』は永遠に『対岸』にあらねばならぬ向う側の存在なのであった。在るべき自然を破壊して止まぬ人間の業の巨大さを思うとき、私もこの『対岸』の持つ重要な意味を認識せねばならぬ必然に迫られているように思った」(平成七・三)。 

西東三鬼の弟子筋にもあたる鈴木六林男は、夏石番矢とは違って、『俳文学大辞典』にその名を見ることができる。そこでは、「句は戦争と愛を主題とする」とある。六林男は、「戦争と愛」を主題とするというよりも、戦争や諸々の社会事象の矛盾やそこに生きる人々をその人々の立場で見据えた「社会性俳句」の旗手という名が、より妥当するとも思われる。「社会性俳句」とは、戦後一斉を風靡したもので、その説明としては、沢木欣一の「社会性のある俳句とは、社会主義的イデオロギーを根底に持った生き方、態度、意識、感覚から産まれる俳句を中心にする」(『俳文学大辞典』)で十分であろう。        

この六林男らの「社会性俳句」は、桑原武夫に「第二芸術論」とこき下ろされた「俳諧(特に、俳句)」についての、思想的・社会的無自覚の態度を改めさせ、その対象を拡充させたという大きな役割を果たしたのであった。しかし、その「社会性俳句」というのは、芭蕉以来の俳諧の世界を否定するものではなく、沢木欣一のいう「広い範囲、過程の進歩的傾向にある俳句」の名称であって、それはいわば、「芭蕉曼陀羅」の世界の「不易流行」の、その「流行」(刻々の変化の兆し)の一態様とも取れるものであろう。      

そして、その六林男らの俳句姿勢は、先ほどの夏石番矢らのように、核弾頭で「芭蕉曼陀羅」そのものを破壊しようとするものではなく、それは、いわば、「対岸に芦刈るは元狙撃兵」のように、狙撃銃をもって、「芭蕉曼陀羅」の一画像を狙撃するようなものととらえることができよう。          

例えば、六林男の「栃木にいたぞうれしい酒焼日焼け顔」(平成三・一〇)などは、芭蕉俳諧以来の典型的な挨拶句として理解できるものであろう。また、「鶏頭や子規想いあと銀行へ」(平成三・八)などは、現在の六林男の「日常詠」そのものであろう。これらの六林男の俳句を見ながら、戦後、若手俳人達を虜にした「社会性俳句」の「社会主義的イデオロギー」というものが希薄になった今日、『俳文学大辞典』の和田悟朗の解説のとおり「六林男俳句は戦争と愛を主題とする」という、個別なテーマへの移行が認められるのであろうか。          

これらの六林男俳句の来し方と行く末を見据えながら、「芭蕉曼陀羅」ををめぐるミステリーに思いをめぐらすことも、これまた、無上の一興ということであろう。