「季語」と「詩語」とをめぐっての謎                       

「前略、石田よし宏先生に選者(朝日新聞栃木俳壇)が代わられたことが何とも不満である一人です。絵で云えばピカソ・マチス等の素晴らしさを理解しない者、時代を知らぬ者とお笑いになるでしょうけれど、老人には何とも馴染めぬ句ばかりです。季語は一応あるようですが、選者吟は勿論、選ばれた句がほとんど首を傾げてしまうような句ばかりで、この頃は投句も嫌になりました。現代俳句でなく昔からあるような表現をして下さる方が望ましいと思います。早々」(平成元・八)。                   

この匿名子の石田への投書の、「現代俳句でなく昔からあるような表現」ということについて、いささか考えさせられてしまった。およそ、現代に生を置き、現代の生活を踏まえて、現代の用語で、現代の問題意識を、五七五(俳句)に仕立てる場合、それは、すべからく、近世や近代の「昔の俳句」ではなく「現代の俳句」ということになろう。    

この匿名子の「昔からあるような表現」というのは、石田の前の選者である増渕一穂(ホトトギス系の「夏草」の同人)的な俳句の世界を指すのかも知れない。石田は、この増渕の世界を、自分の「人間諷詠(?)」に対して「花鳥諷詠」と規定しているが(平成元・四)、この「花鳥諷詠」とは、いわずと知れた、「ホトトギス」の高浜虚子の俳句の世界である。      

「花鳥諷詠と申しますのは花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密に言へば春夏秋冬四時の移り変りに依つて起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するものであります」(『虚子句集』自序)。続けて、虚子の継承者の稲畑汀子は「虚子が人事界の現象を花鳥(自然)に含めたことは重要であるが、その事は案外知られていない。それは人間もまた造化の一つであるという日本の伝統的な思想、詩歌の伝統に基づくものであった。アンチ花鳥諷詠論の多くは、この点を理解せず、自然と人間、主観と客観などの二項対立的な西洋形而上学に基づいているため、主張が噛みあっていないように思われる」(『俳文学大辞典』)というのである。                   

さしづめ、このアンチ花鳥諷詠論の代表者が、前衛俳句・造形俳句を経た金子兜太ということになるのであろう。しかし、この兜太が、石田が指摘するように、「成熟した言葉として歴史性豊かな『季語』を無視してはいけない」と、それまでの「『季語』に代わる『詩語』を強行した兜太先生の雄姿を、今なつかしく思いだす」(昭和六三・一)と、「古き良きものに現代を生かす」(「海程」創刊二五周年記念大会)へと、やや軌道修正に入ったのである。    

そして、石田は、この兜太の影響を色濃く甘受している俳人の一人ではあり、「現在只今の自己表白のために季語を如何にかかわらせるか、日夜腐心している」(昭和六三・一)のとおり、有季定型派の作句活動であり、匿名子が指摘するように、「季語は一応あるようですが」どころではなく、その「季語」の新しい再発見に、凄まじい実験を試みている俳人の一人であろう。          

しかし、石田と匿名子とでは、この「季語」に係わる認識が天と地ほどに相違するのである。石田にとって、「季語は、現在只今の自己表白のための、いわゆる『詩語』の一つ」なのであろう。それに比して、匿名子のそれは、長い俳諧(連句)の歴史で今日まで守りとおされてきた「発句(連句の巻頭句)」の「季語と切れ字の定石」の、その絶対必要な「季語」のこととして理解しており、その「季語」は、何時の間にやら、虚子の「花鳥諷詠論」と結びつき、「虚子俳句にあらざるものは俳句にあらず」・「虚子俳句には季語が必要欠くべからざるもの」というドグマ(極説・閉鎖説・絶対説・金科玉状説など)が樹立されたのである。    
 そして、この虚子と、その継承者(長男)の高浜年尾は、いわゆる、虚子俳句の基になっている俳諧(連句)に精通し、その重要性を知り抜いているのであるが、その手間・暇のかかる俳諧(連句)には蓋をして、その俳諧(連句)と切り離して、「花鳥諷詠的発句」のみを、「伝統俳句」という名のもとに、「俳句」として位置づけ、今日、「ホトトギス俳句」としてその隆盛を極めているのである。そして、「ホトトギス俳句」の今日の代表者が、年尾の娘さんの稲畑汀子その人なのである。
 ここは、稲畑は、虚子・年尾の俳諧(連句)の伝統を生かし、その「ホトトギス俳句」を「ホトトギス連句」にまで、拡充していただきたいと思うのである。そして、兜太は兜太で「『季語』は「詩語」の一つである」ということで、「季語」の再発見に務め、その「ふたりごころ(情)」(『流れゆくものの俳諧』)という観点からの、これまた、「海程俳句」から「海程連句」へと、その土俵を拡げて頂きたいと思うのである。    
 やや、脱線気味であるが、いよいよ、「季語」と「詩語」という、とんでもない泥沼のミステリー・ゾーンに進入したようである。                    

「俳句」と「連句」とに係わる謎                         

石田の平成五・一に次のような連句についての記載がある。             

「第一位の入選句を立句(発句)にしようということになっていて、その第一位の作品が掲句(注・「老けまいと茶の花は薄紙の暗さ(田浪富布)」である」。        

「ところが連句の指導者である富田昌宏(注・渋柿)や大豆生田伴子(注・あした)から『連句は挨拶ということを特に重んじるので、スタートの発句は遠慮深く、作者の気持ちを表面に出さないほうがよい』ということで、当たり障りのない第三位の次の句(注・「日光連山火種のやうに初明かり(中山久子)」が採用されることになった」。     

「脇句以下、切字を使わないのが鉄則という。一句独立した形で表現することに全てを賭けてきた俳人にとって、これは衝撃であった。今から百年前、正岡子規が連句の発句を独立させて『俳句』という名称を与え、近代文学としての俳句革新を実現せねばならなかった心情が僅かながら理解できたように思えた」。                  さて、この「連句」という名称は、あの「花鳥諷詠」の高浜虚子が名付け親なのである。それは、明治三十七年九月の「ホトトギス」誌上であって、虚子は「新連句論」を掲載して、これが今に伝わっている。  
 芭蕉・蕪村・一茶の時代は、「俳諧(俳諧之連歌)」という名で呼ばれていた。そして、明治二十年代に、正岡子規の俳句革新により、その「発句」が「俳句」と命名され、「俳諧」という語句は、「連俳」・「連句」などと呼ばれ、そして、虚子の「新連句論」の登場となるのである。そして、「俳句」と「連句」とに係わる謎は、この子規の俳句革新運動からスタートとするのである。              

その俳句革新運動の第一声は、明治二十五年の『獺祭書屋俳話(だつさいしょおくはいわ)』、そして、翌年の『芭蕉雑談』と続き、その『芭蕉雑談』の読者の「或問」に答えるという形で、子規は「連俳非文学論」を展開するのである。             

その主張は、「連俳は文学に非ず、故に論ぜざるのみ。連俳固より文学の分子を有せざるに非ずといへども文学以外の分子をも併有りするなり。而して、其の文学の分子のみを論ぜんには発句を以て足れとなす」というのである。ところが、子規は、その言葉が乾かないうちに、明治二十八年の『俳諧大要』で、「俳諧連歌」という項目の下に、詳細に連句について触れ、蕪村の連句の鑑賞記事すら載せているのである。              

そして、その四年後の、明治三十一年に『俳諧三佳書序』で、子規は、子規自身、本格的に連句と取り組んでいなかったことを告白し、次のとおり、「連句がこんなに面白いものなのか」ということを吐露しているのである。                  

「自分(注・子規)は連句という者余り好まねば古俳書を見て連句を読みし事無く、又、自ら作りし例も甚だ稀である。然るに此等の集(注・『猿蓑』・『続明烏』・『五車反古』)にある連句を読めばいたく興に入り、感に堪ふるので、終には、これ程面白い者ならば自分も連句をやつて見たいという念が起つてくる」(注・原文は句読点などなし)。  

要するに、子規は、余り、連句についての知識がないままに、「連句非文学論」を唱えて、後で後悔しているようにも思えるのである。このことは、後に、虚子が、その『子規と漱石と私』の中で、「連句の研究は子規がのちの人に残した大きな宿題の一つと考えます」と、はっきりと明言しているのである。  

さて、現在の「俳句」と、芭蕉・蕪村・一茶等の江戸時代の「俳諧(連句)の発句」とは同じものなのだろうか。これについては、諸説が分かれていて、これまた、ミステリーのミステリーの分野なのであるが、余り、詮索しないで、「現在の俳句は、連句の一番目の発句と同じである」と理解をいたしたい。  

しかし、連句関係者は、冒頭のように、「連句は挨拶ということを特に重んじるので、スタートの発句は遠慮深く、作者の気持ちを表面に出さないほうがよい」というと、石田が感じているように、自己の魂の切実な表白である「俳句」と他人への挨拶の自己の魂の中途半端な表白の「発句」とは、全然異質のものと思われてくるのである。
 とすれば、これまた余り詮索をしないで、「俳句的傾向の発句と非俳句的傾向の発句とがあるが、概ね、俳句と発句とは同じである」という位の理解で我慢をしたい。そして、一番大切なことは、自分の俳句観を確立する上において、芭蕉・蕪村・一茶等の江戸時代の作品と理論を参考とする俳人ならば、とにもかくにも、「俳諧(連句)に精通しなければならない」ということなのである。即ち、「俳諧(連句)に精通しないで」、すぐに、「芭蕉・蕪村・一茶等」の俳諧(連句・発句)の世界を、自分の俳句観に応用することは、それは、前提となる世界が違い、とんだ誤りを冒すこととなるということである。                      

これもまた、いささか、脱線気味になってきたが、「俳句」と「連句」とに係わる謎も、ことほど左様に、底無し沼のような趣である。                                      

「連句」それ自体に係わる謎                           

石田の平成五・四に次のような記載が見られる。       
「最近、私の身辺では連句に対する動きが活発で、話を聞く機会をもっているが、発句や初六句までは遠慮深く、作者の気持ちを表面に出さないほうが奥ゆかしくて良いとされている。百年前に正岡子規が堕落した俳壇に見切りをつけ、連句から発句だけを独立させ『俳句』と命名したことは周知の通りだが、松尾芭蕉以前または以後の俳壇は、歌仙すなわち連句が盛んで、芭蕉も百二十余の歌仙を巻いているそうだ。その連句が序々にブームになりつつある現在、私(注・石田)などが強く押した第二句の心象俳句(注・「まだ決めかねて散る花に吸われそう(武田美代)」)は発句の条件に合わず、永久に採用されぬ運命にあるということになるのだろうか。そうなると、現代連句の在り様に首を突っ込んでみなくてはと言った気持ちになる」。
 そうなのである。連句自体が式目(規則)などで窮屈この上ないので、いくら集団創作という代物であっても、その創作自体に、やや懸念せざるを得ない、そんな感じすら抱いてくるのである。 
 季語一つとっても、俳句の世界では、「新年・春・夏・秋・冬・歳末」程度なのであるが、連句の世界では、「初春・仲春・晩春・初夏・仲夏・晩夏・初秋・仲秋・晩秋・初冬・仲冬・晩冬」と細分化される。土台、この連句の世界で使える歳時記は、山本健吉編の『最新俳句歳時記』(文芸春秋)位のようなのである。これでは、連句をやろうとしても、その最初から「連句というのは、敬遠した方が良い」ということになる。            

発句・脇句の作法、第三の転じ、恋の句・月の句の作法、一番最後の挙句の作法、そして、それらを除いた平句の展開など、一般には「連句というのは、敬遠した方が良い」という雰囲気を有している。しかし、それらは、所詮、規則であり作法の問題であり、石田連句も武田連句も、そういう、その連句に参加する人達(連衆)の共通理解の下に、どしどし、新連句の世界を展開しても、これは推奨されることはあれ、非難される筋合いのものではないと思われるのである。                 

勿論、連歌・連句の伝統に忠実なものが、その主流にあって、正岡子規以降の俳句の成果を存分に取り入れた、新しい息吹のある新連句の世界が、その傍流にあって、そして、それらが、重ね合わさりながら、日本独特の連句文学という大河に発展していくと・・・、誰しもが、このような考え方を持っているのではなかろうか。       
 ところが、連句人というのは、その連句に精通すればするほど、俳人以上に、規則・作法を重要視し、その大きな枠に抑えこもうとする。こんなことが底流にあって、「連句をやると俳句が下手になる」という妄言が、実しやかに流布されているのである。そして、「座」という集団の中にあって、その一員としての個人の自由な創作意欲が発揮できないような連句の世界であるならば、それは、本当に、「連句をやると俳句が下手になる」ということは明らかであり、連句の衰微は明らかであろう。          

今や、静かな連句ブームから、賑やかな連句ブームとの趨勢にあるが、この時にあたって、二度と、子規のような「連句非文学論」などでノックアウトを食わないように、幾重にも幾重にも理論武装をする必要があると思われるのである。しかし、それにしては、余りにも、連句それ自体が恐ろしいほどのミステリー部分を擁しており、日暮れて道遠しという感じなのである。      
     

⑮「集団創作」と「個人創作」とをめぐる謎                     

草加市で開催された「奥の細道国際シンポジュウム」の中での、西独デュイスブルグ大学のラファエル・ベアマンの興味ある発言が、石田の昭和六三・一二に紹介されていた。「西独の研究者の間では、芭蕉は李白や杜甫をはじめ古今集・新古今集などの多く文献に精通していて、それらのことばを全面的に引用して表現している。自分のことばで文学を作っていない。文学は創作なのだ。だから芭蕉は偉大な教養人ではあるが芸術家ではない・・・との説がある」。          

このラファエル・ベアマンの芭蕉観は、極めて、俳句革新の遂行者・正岡子規の考え方に類似している。いや、日本人の子規が、西洋人のベアマンの考え方に類似しているといった方が良いのであろう。西洋文学の思想は、個人主義的文学観であり、個人の独創性を基礎に置き、個人の独創性=創作という考え方である。それに比して、日本古来の文学の思想というのは、この個人主義的文学観の、個人の独創性=(個人的)創作という分野よりも、集団主義的文学観の、集団の相互の連想性=(共同的)創作という分野を大切にしたのであった。    

 古歌の一部を取り入れ余情を豊かにする「本歌取り」は、『新古今』時代に最も盛行し、この「本歌取り」は、まさに、連想性=創作という分野の代表的なものなのである。そして、俳諧(連句・発句・川柳)でも、この「本歌取り」は持て囃された。芭蕉の蕉門では「本歌を一段すり上げ」ることが、その『去来抄』などで強調されている(『俳文学大辞典』)。              

冒頭のベアマンの芭蕉観は、「和服姿(日本的な文学観)の芭蕉は、洋服(西洋的文学観)を着てないから、文学者(西洋的)でない」というような主張なのであろう。そして、このベアマンの論法が、子規の「連句非文学論」にそのまま当て嵌めることができるのである。             

子規の『芭蕉雑談』の「或問」の答えの「連句非文学論」は次のとおりである。  

「答へて曰く、発句は文学なり、連俳(注・連句)は文学に非ず、故に論ぜざるのみ。連俳固より文学の分子を有せざるに非ずといへども、文学以外の分子をも併有するなり」。「答へて曰く、連俳にと貴ぶ所は変化なり。変化は即ち文学以外の分子なり。蓋し此変化なる者は終始一貫せる秩序と統一との間に変化する者に非ずして、全く前後相串連せざる急遽條忽の変化なればなり」(原文に句読点などを挿入している)。          

即ち、子規は、「連句は、個人の感情を本としていないので、西洋的な新しい文学とはいえない。しかし、その連句の発端となる発句については、個人の感情が本となっており、これは、西洋的な新しい文学と近いものがある。また、連句の生命は、偶発的な変化であり、この偶発的な変化などは、いわゆる、新しい文学においては認めがたい」というのであろう。                

明治維新というのは、江戸が東京になり、ちょんまげがざんぎり頭となり、和服が洋服となる大きな革命であった。子規の「俳句革新」というのは、この革命と同じで、それまでの宗匠俳諧を否定し、強いては、その宗匠俳諧の基礎となっている芭蕉を否定することから始まった。この結果、芭蕉の神聖化は否定され、連句は「連句非文学論」で死刑を宣告され、わずかに、発句のみが「俳句」と名を変更され、当時の新しく勃興してきた書生(アマチュア)達が、その主役となっていったのである。 そして、その書生達の考え方の基礎には、西洋近代主義的な個人主義的思想(文学観 )が据えられたのである。         

しかし、こと、連句に限っていえば、連句は一人の個人の創作ではなく、二人以上の人々によって創作されるところの集団(座)の創作といえるもので、その西洋的な文学観とは全然異質の世界のものであった。そして、それは、一句一句は独立していて、そして、全体としても総合され、一つの詩的な世界を創造している、いわば、日本美術における「絵巻物」のような世界で、日本的な独特の世界のものなのである。 
 子規の「連句非文学論」は先に見てきたが、その芭蕉否定は、次のとおり、見事に、冒頭のラファエル・ベアマンの芭蕉観とその軌を一にするのである。          

「芭蕉は発句よりも連俳に長じたる事、真実なりと雖も、是れ芭蕉に智識多き事を証するのみ。其門人中、発句に勝れて、連俳は遠く之に及ばざる者多きも、則ち、其文学的感情に於て、芭蕉より発達したるも、智識的変化に於て、芭蕉に劣りたるが為なり」(注・『芭蕉雑談』の原文に句読点などを適宜挿入している)。
 子規は、ラファエル・ベアマンと同じように、「芭蕉は知識の人であって、感情の人ではなく、従って、文学人でない」というニュアンスなのである。しかし、芭蕉こそ、日本が生んだ、世界に冠たる文学人・詩人なのである。このことを証明するには、子規以後の日本文学上の鬼才・芥川龍之介の、次の『芭蕉雑記』からの引用(要約)で十分であろう。       「詩人としては、彼(注・芭蕉、以下同じ)の偉大さは一に漢語や雅語にも新しい生命をふきこんだ上に、俗語を正していること、霊活に語感をとらえて、俗語に魂を与えていることである。二つには目に訴える美と耳に訴える美との微妙にとけ合った美しさをそなえていること、とりわけ『調べ』を駆使する手腕に大自在をきわめていることである。画趣をあらわすにも、彼は非凡であった。三つには、彼の詩は切実に時代をとらえ、大胆に時代を描いた。恋を扱った連句には、女や若衆の美しさに鋭い感受性を震わしていた多情な元禄びとが現れているし、また鬼趣をろうした巧妙な諸作や、いうべからざる鬼気に富む作品を残している点は、怪奇小説の流行にふさわしい。芭蕉の俳諧は、その用語と内容の上で、当時最もモダーンな性格であった。」 

子規やラファエル・ベアマンに見せたいような、芥川龍之介の芭蕉礼賛である。さて、最後に、ともすると、ひとりよがりの個人のモノローグ(独白)的な文学(俳句・川柳)が横行している今日にあって、共感し、共有し合う集団のダイアローグ(対話)的な文学(特に、連句の再興がクローズアップされる)が、今こそ求められているのではなかろうか。この「『集団創作』と『個人創作』とをめぐる謎」において、子規や龍之介の原文を長々と引用したのも、それらの先達(他人)の創作と自分の創作とが、あたかも「集団創作」のようなダイアローグ(対話)的な記述になることを意図したためである。      

そして、この「集団創作」と「個人創作」とをめぐるミステリーについては、今後、精力的に検討されて然るべき分野であるということを声を大にして指摘をしておこう。