「虚」と「実」とに係わる謎                           

石田と宇多喜代子との手紙のやりとりは、これは圧巻というところなのだが、その中に次のようなものがある。         

「『俳句空間』に掲載された熊野大学のことでいろいろ聞かれるのですが、結局のところ、うまく口では言えないので困ります。大学という名がついているので、多くの方は普通の学校を想像なさいますが、そうではありません。一言でいいますなら、観念の大学、観念の熊野、非在ということであります。どうぞよろしくご理解ください」(平成三・五)。   

この「観念の大学、観念の熊野、非在」ということは、即、「虚(きょ)の熊野」ということになろう。そして、この「虚」と「実」とをめぐっての「虚実論」というのが、蕉風俳論の中でも最も厄介なものの一つであろう。      

『俳文学大辞典』の堀切実の解説は次のとおりである。              

「俳諧表現の本質が『虚』と『実』との融合した世界を理想としたものであること。またそのためには方法として『実』よりも『虚』に重点を置くべきことを説いた俳論」とある。 まさに、先ほどの阿部完市などは、この「虚実論」を地でいくような俳人ということが理解できるであろう。    
 更に、その解説は次のとおりに続くのである。               
「芭蕉が直接『虚実』に言及しているのは初期の『田舎句合』などに限られ、それもほとんど談林的虚実観の域を出ていないが、支考によれば『言語は虚にて実をおこなふべし」(「陳情ノ表」)との教えがあったという。虚実論を本格的に体系化したのは、支考であり、一つには眼前の事実よりも文芸的真実を優先する立場から、表現における『虚』を尊重すべきこと、すなわち『上手に嘘をつくこと」の大切さを説き、二つには対象に向かう作者の心のもち方として、心を『虚』に預けるべきこと、すなわち『私意を排すること』の重要性を説いて、これを『虚先実後』の説として提唱した」とするのである。     

この「虚実論」を展開した各務支考は、蕉門随一の俳論家で、その「姿情論」(姿先情後の説)と併せ、この「虚実論」は、支考の独壇場であり、今日まで、延々と、この支考の影響は尾を引いているのである。   
 そして、まさに、宇多喜代子の、「熊野詣」も「熊野大学参加」も、この支考の「虚実論」を自分のものとするための、宇多にとっては、俳人としてのバックボーン得ることにも匹敵するものとして理解できるものであろう。
 それは、「自分と熊野」であり、「自分と文芸的真実との出会い」であり、「実としての自分と虚としての熊野との葛藤」であり、「結局のところ、うまく口では言えないので困ります」というのは、宇多の嘘偽らざる心境であろう。               

宇多の「暴飲のものら驟雨にめぐまれて」(平成二・三)は、まさに、「実としての自分と虚としての熊野との葛藤」における、宇多の願望だろう。宇多は「虚」(「暴飲のものら驟雨にめぐまれて」いる)を羨んでいるのだ。自分も、その「虚」を得て安住したいのだが、どうにも、「虚先実後」を自分のものに出来ないのであろう。      
 この「暴飲のものら」とは「パトス(情念・激情)」なのだ。そして、宇多その人は「エトス(規範・道徳・理性)」なのであろう。そして、宇多は、俳人として、このパトスの血(驟雨)を得たいのであろう。それがままならぬこの句は、実に、不安定そのもので、宇多の、この危ない不安定さが、この句の生命線なのであろう。
 ここにおける、石田の宇多の「わが俳まくら」(朝日日曜版)の紹介は印象的である。「『熊野大斎原(おおゆのはら)』は掲句誕生のいきさつを如実に語っていた。古来、熊野は鎮魂再生の地、本宮跡の大斎原の草地に佇つと、地に鎮む累々たる魂の回生願望の気息が肌身を刺すように伝わってくるという。そしてある夏、ここに芸人の一団がやって来て、粘りつく闇の中で火を焚き天につつ抜ける芝居を見せてくれた」というのである。  

宇多は、伊邪那岐尊(いざなきのみこと)の葬られたというこの熊野にて、「虚」の世界を見てしまったのだろう。      
 そして、「実」なる自分の魂を、その「虚」の世界に遊泳させたいという願望に浸ったのであろう。しかし、その「実」なる自分の魂を、その「虚」の世界に遊泳させたいという願望に身を置いている以上は、その五七五の世界は、絶えず不安定な状態に放置されるような、そんな予感がしてくるのである。       

長い一文となってしまったが、ことほど、さように、この「虚」と「実」とをめぐるミステリーは、ミステリー中のミステリーということになろう。                                

「常識」と「非常識」とに係わる謎                        

「百千鳥ほんとうは来ぬ朝もある」(宇多喜代子)の句について、石田は「俳句は常識とのたたかいだと、つねづね自分に言いきかせ、また仲間の合言葉にもしてきたが、しかしこの常識という化物、油断も隙もない、完全に私の体内に巣食って大あぐらをかいていると認識せざるを得ない現状だ。だから『ほんとうは来ぬ朝もある』と胸元に匕口(あいくち)を突きつけられたら私は呆然と立ちすくんでしまう」との評を寄せている(平成二・五)。 
 石田は、この句は「非常識(常識にあらざる)」なものと理解したのである。「朝はいつだってそこにあると当然のように信じていた(石田の)常識」を打ち破るような、強烈な「非常識」の警句となったというのである。   
 しかし、石田にとって、一見、強烈な「非常識」の警句とも受け取られるものも、その受け取り方で、この句は、典型的な「常識」的な作句と思われる場合もあるであろう。  

例えば、この「百千鳥」というのは、万葉集や古今和歌集の本歌取り(百千鳥さえずる春・百鳥の声なつかしき)の詞(ことば)と理解できるものであろう。そして、その春を謳歌しているいろいろな鳥たちも、何時かは「ほんとうは来ぬ朝もある(死ぬ)」という、極めて、「常識」そのものの作句で、ただ、面白いのは、「ほんとうは来ぬ朝もある」という表現方法だけなのだ、という理解も成立しよう。これを前の掲出句と並列してみると、その前の句よりも、更に、その「常識」さが明瞭になってこよう。            

○ 暴飲のものら驟雨にめぐまれて    

○ 百千鳥ほんとうは来ぬ朝もある     

やはり、宇多喜代子は、「エトス(規範・道徳・理性)」の俳人であって、「パトス(情念・激情)」の俳人ではないのだ。そして、そのエトスに足を踏み入れている俳人の句は、どうしても、ある一定の枠があり、真の「非常識」という、「パトス」の世界には踏みこめないというジレンマがあるのだろう。 
 そして、宇多は、そのことを十分に承知しており、その句集『半島』のあとがきの「本体から外れた意志で反情緒的に外洋へ突出している半島こそ、私の内なる者らの肉体を引き受けてくれる地上浄土であるように思われる」という表現は、これまた、その「熊野詣」と同じように、エトスたる俳人・宇多の、切ないまでのパトスたるものへの願望、そのものの表明なのであろう。      
 宇多が、本当に、そのパトスたるものへの願望を満たしたいのならば、それは、現在の宇多の二兎を追っているような一切の「評論・編集・etc」的活動というエトス的なるものとの訣別が必要となって来るのではなかろうか(しかし、宇多は多分にそこまでは踏みこめないと思われる)。         

これらのことに想いをめぐらす時に、「虚」と「実」とをめぐるミステリーが、ミステリー中のミステリーと同じように、「常識」と「非常識」とに係わることも、これまた、大変なミステリー・ゾーンということになろう。   
                    

⑪ 「常識」(旧)と「非常識」(新)とに係 わる謎                                     

石田の、この「栃木会報」で一番陰鬱のものは、石田の朝日新聞栃木俳壇の選句にかかわる非難中傷に係わる投書に関してのものであろう。                

「・・・難解俳句を至上とし、よく分からないのは読者の不熟な眼識の低さによるという、多くの読者を蔑み高慢な意見を吐く選者に驚きかつ嘔吐したくなる思いで・・・」(平成四・十一)。              

これより二年前のものにも、「増渕(一穂)先生の築かれた栃木俳壇を踏襲される方を選者にしてほしかったと思います。俳句はやはりリズムと心情の読みこまれたものこそ心を打つものであって、現代においても芭蕉の句が少しも古さを感じないではありませんか。それに人柄だと思いました。字あまり、漢字の句など感動いたしません」(平成二・一)。                   

これは、石田の「栃木俳壇回顧・・・新を求める心、大切に」に関連するものであった。                    この石田と匿名子との不調和は何に由来するのであろうか。これは、詮じつめていくと、石田の「非常識」(新)と匿名子との「常識」(旧)とのぶつかり合いに起因しているように思えてくる。                   

石田は、「凝り固まった『常識』(旧いもの)を破って、『非常識』(新しいもの)の世界を見せて欲しい」と願望し、匿名子は「『常識』(旧いもの)を破り、『非常識』(新しいもの)に方向転換するのは許さない」というのである。これはまた、「先を見るもの」(石田)と「後を見るもの」(匿名子)との不調和ともいえるもので、これは決して交差することなく、両者とも並行線に終わる悲劇的なものであろう。 
 こと、芭蕉に限っていえば、芭蕉の俳句人生というのは、「『常識』(旧いもの)を破り、『非常識』(新しいもの)の世界」を模索し続けた、五十一年の生涯であったということはいえよう。             

桃青時代の「談林新風」心酔の時代、芭蕉庵と号しての漢詩文調の「わび」詠出の時代、『野ざらし紀行』の歌枕巡礼をとおしての「風狂」を目指した時代、そして、『おくの細道』の辺土の旅をとおして風狂と道念を結びつけた「不易流行」樹立の時代、そして、晩年の日常庶民の哀感の世界を見据える「かるみ」の工夫と、その「新を求める」姿は、凄まじいものがあった。          

石田は、これらの一連の動態的の動きの中で、その作句活動をしようとする。そして、匿名子は、自分がこれで良しとする、ある静態的な断面において、その作句活動をしようとする。このすれ違いなのであろう。この石田と匿名子とのやり取りを見ながら、どちらが是で、どちらが否ということは、差し控えるべきものと思われるが、ただ、こと、朝日新聞栃木俳壇の選者の、増渕(旧派?)から石田(新派?)への交代は、「常に切磋琢磨する」という観点からは、いずれの俳句結社などにおいても、よく取られる常套手段的なものであって、これを否とすることは、余りにも、匿名子が自分の情にウェートを置き過ぎているとはいえるであろう。
 とにもかくにも、この石田と匿名子との不調和を見ながら、「常識」(旧)と「非常識」(新)との間には、大変な謎が存在するということを思い知ったのである。     

(なお、石田は、自分の立場は、「新を求める立場」であっても、そのことが、「非常識」的立場でも何でもなく、極めて、「常識」的立場と考えているであろうから、いよいよ謎は深まるばかりである。)