「吟行詠」と「俳枕」とに係わる謎                        

「俳句を作るために旅をするということは本筋ではないと思っている。日常生活に感動や感激が起こらないということは、やはり俳人として困ることだと思っている。」    

これは、能村登四郎の言葉として、石田の昭和六二・八に紹介されているものである。 この能村登四郎の立場を是とするものが、増山美島で、それを否とするのが石田よし宏ということで、この二人の興味ある姿勢を浮き彫りにしている。どうも、先ほどの「俳枕」と同じように、俳人というものは、「吟行」ということに血眼になっていて、その結果として、「歌枕」の他に「俳枕」まで樹立しないと、つじつまが合わないような結果をもたらしているように思えるのである。     
 かの『俳文学大辞典』には、「吟行」について「詩歌・俳句などを作るために野山などへ出歩くこと。特に近代の俳句では重要な作句手段。明治期の日本派にすでに郊外を遊吟する風があったが、大正期、『ホトトギス』の写生尊重主義により、その意義を高め、昭和初年の武蔵野探勝会に至って花鳥諷詠・客観写生の具体的な方法論として確立した」(本井英解説)とある。どうも、「吟行」して「花鳥諷詠」の句を作ることから、「吟行詠」という言葉も誕生しているようにも思えるのだが、この高浜虚子の師匠の正岡子規は、いわずと知れた「病牀六尺」とそこから垣間見える僅かな小庭のみでの作句活動で、近世の芭蕉の「俳諧」を、近代の子規の「俳句」へと百八十度転回させたのであった。             そして、子規は、「吟行」をしたくても、それが叶わないのだ。そして、そういう人達は、これまた、想像をはるかに超える数字となることだろう。             

そういう人達に、「作句をする」ことを拒否するのであろうか。この答えを考えれば、そこには自ずから一本の道筋が見えてくる。「その置かれた境遇にあって、その境遇の日常の生活にあって、作句しなければならない、刻一刻と変化する自分と他者(自然)との関係を如実に五・七・五の世界に嵌め込む、その所作」こそ、作句活動というのであろう。即ち、作句活動の基本は、「日常詠」にあり、「吟行詠」というのは、その補助的な作句活動以外の何ものでもないであろう。 
 とすれば、昭和初年の武蔵野探勝会以来、膨大に蓄積されてきた「吟行詠」の集大成のような、いわゆる、古来の「歌枕」とは全然異質の「俳枕」などという分野を拡大する必要は、さらさら、ないと思われるのである。 とにもかくにも、この「吟行詠」と「俳枕」とは密接な関係にあり、その両者とも、外面的には取りつき易い装いをしているのだが、その実は大変なミステリーを含んでいるということなのである。         
 そして、その実のミステリーの本質には迫ろうとせずに、その外面の安易な「吟行詠」とか「俳枕」とかの形にのみとらわれている風潮が、どうにも目についてならないということである。                         

「吟行詠」と「日常詠」とに係わる謎  

 「石田世間様(注・「びつしりの冬芽私が世間です」の石田の句から来ている)。きのうはありがとう。あれから六時四十五分の浅草行き鈍行に乗り、題詠十題、各人十句、車中で選句を済ませ、浅草の茶房で披披講、合評、反省会をして散会。何と言われようと俳句は足でかせぐ鍛練あるのみ。季題を詠むのが私の作句方法、人生観」(平成三・二)--、この手紙を頂いて、さすがの、増山美島に「吟行詠」を勧めている石田も、少し、首をかしげているようなのである。     
 凄まじいというよりも、これは、太平洋戦争時代の関東軍のような、つい一昔前の日本株式会社猛烈社員のような、そんな印象すら与えるのである。それよりも、本当に、「何と言われようと俳句は足でかせぐ鍛練あるのみ」ということなのであろうか。次の、「季題を詠むのが私の作句方法、人生観」というのは、かの武蔵野探勝会以来の伝統ということであれば、これはこれで理解できるところのものである。 しかし、「俳句は足でかせぐ」というのはどうにも、ユーモアにしても、悲しい商人根性の「俳句を銭と間違えている」ところの「拝金主義」の匂いがしてくるのである。   旅の詩人といわれる芭蕉にしても、スナップ写真のような「吟行詠」はひとかけらも存在しない。蕪村は「書斎派」の代表選手のような俳人である。一茶においては「俳句などを作るために野山などへ出歩くこと」などという余裕はさらさらなかったであろう。   

石田は随所に、「旅の句は土着の心で、日常の句は旅の心で詠う」(昭和六三・八)という作句信条を披露しているけれども、これまた、「土着の心と旅の心」とをそう器用に使い分けすることは、よほどの達人でないと出来ない境地であろう。そして、それ以上に、この石田の作句信条で大事なことは、「俳句は足で稼ぐものではなく、心(で稼ぐ)」という、ここに注目をする必要があろう。また、石田は、「吟行句というのは時としてその場に居合わせた者だけにしか分からないという作品が多い」とも、また、飯田龍太の「その土地(吟行地)に在るという緊迫した臨場感」ということにも触れている((昭和六三・八)。              

これらを総合すると、「吟行句というのは、絵画におけるスケッチのようなもので、そのスケッチを、自分の心にある主題に、どのように活かすかどうかの一素材にしか過ぎない。もし、そのスケッチをスケッチとして完成させようとしたら、よほどの僥倖と覚悟が必要である」というような手前勝手な理解をすることとしている。           そして、このことは、「『吟行詠』を『日常詠』にまで昇華させた時に、始めて、一個の作品となる」ということに結びつけたいのである。                 

即ち、「吟行詠」と「日常詠」という二元論的にとらえないで、「日常詠の中に吟行詠がある」と一元論的な理解をしたいのである。 石田も、「恐山ぶつちからかしの祭かな(相田風女)」の句について、当初賛意を表していて、後段になって「『ぶっちらかし』は他所者の目だ。土着の信仰を批判した目である。双手をあげて喜ぶわけにはいかなくなってしまった」と漏らしているのである(昭和六三・八)。               

この石田の呟きは、「旅の句は土着の心で、日常の句は旅の心で詠う」ということが、凡そ至難の技ということを告白をしてるといえないであろうか。         
 これらのことについて、平成五・五に紹介されている佐藤鬼房の次の発言は確かな手応えを与えてくれる。           

「風土を歴史的にとらえるということは人間の悲願であるといってよい。俳句の取材旅行が非難されるのは、多くは現象描写にとどまって、人間悲願の陰影を描き切れない場合なのではないか。・・・私の心のなかには常に山河がすんでいる。私は『わたしの風土記』を綴っていく」(『風の樹』)。       

この鬼房の言が、これらに関連する足掛かりとなろう。「その言や良し」である。それにしても、「吟行詠」と「日常詠」とに係わるミステリーも大変なもののようなのだ。  

「地名のある句」をめぐっての謎                         

「市場すぎて軽のやまめにあいにゆく(阿部完市)」の句について、石田は、平凡社の『世界大百科事典』を引いて、この「軽」について、「柿本人麿が亡き妻を忍んで軽市(現在の橿原市大軽町にあったという古代の市場)」をつきとめている(平成三・十一)。 更に、「句集『軽のやまめ』には土地の名前が溢れるように現れる。ひたち・安達ケ原・会津・漓江・北京・上海・飛騨・滋賀県・福島県・どいつ・ねぱーる・にゅーおりんず・しもつけ・あるぜんちん・五所川原町などなど、世界中のあらゆる土地の名前が実にさりげなく一句の中に織り込まれている。地名に対する完市氏の異常なほどの執着は、その土地との交合の瞬間に燃焼する喜びにあるのではなかろうかと思ってしまう。そして、この時空を越えた世界に遊ぶことが阿部完市の俳句なのかもしれぬ」と結んでいる。    

これに対して、増山美島は「完市俳句は無色・無思想・無重力・無季、そして無節操と手に負えるものではない」と評しているようである。              
 これらの石田の感想も面白いのだが、美島の、この感想には、当初、ブラック・ユーモアかという印象を受けるのだが、これは、大真面目な、それでいて、恐ろしく的を得たものだということに気がつくのである。 
 この美島の言葉と、同じ論法は、芭蕉の「さびは句の色なり、閑寂なる句をいふにあらず」(『去来抄』)で、これと重ね合わせると、「無色・無思想・無重力・無季・無節操は、完市の句の色(内面的なもの)であって、その句自体(外面的なもの)は、無色・無思想・無重力・無季・無節操ではなく、逆に、その反語的な色彩すらも帯び、石田のいうように、『時空を越えた世界に遊ぶ』、そのようなニュアンスすら、詠み手に伝わってくる」ということになる。          

即ち、言葉をかえていえば、完市の句集『軽のやまめ』に出てくる地名は、ことごとくが、「虚」の世界のものであり、そして、それが、五七五の一句仕立てとなったものは、何かしらの「実」的なイメージを抱かせるということである。      
 その最たるものが、「栃木にいろいろ雨のたましいもいたり(完市)」であって、完市は、完全に「虚」の世界で作句しており、この「虚」の「栃木」のイメージが、あの季題の本意の歳時記として名高い河出文庫の平井照敏編『新歳時記』の別巻の『俳枕』の「栃木」の本意について、「関東平野の北方、しだいに山岳となる下野は、雨の多い風土。そこに何かしら原始のたくましいエネルギーが宿る」という記述になって現れてくるのである。 
 「栃木は雨の多い風土」であろうか。栃木は雷様は多いが、とても雨が多いとは思われないのである。これは、まさに、阿部完市俳句の亡霊なのではなかろうか。 
 とにかく、これまた、「地名のある句」というのは、ミステリーのミステリーを含んでおり、心してかからなければならないと思われるのである