奇想天外の「造語」をめぐる謎                          

「指呼の山昼なまけして山ざくら」(増山美島)の「昼なまけ」は、「山眠る」・「山笑う」と同じ擬人化の一つで、美島の造語という(昭和六二・五)。この造語について、石田は「途轍もない造語」・「奇想天外の造語」という感想をもらしている。                どうも、美島が所属している(いた)「鷹」という俳句結社は、この種の造語作りに得意な俳人が結集しているやに思えてくる。
 その「鷹」に所属していた信州の俳文学者でもある宮坂静生は、この度刊行された『俳文学大辞典』(角川書店)という、これまた途轍もない大辞典の中で、増山美島について、「土俗詠(者)」という造語を呈していたし、これまた、その「鷹」の編集を担当している小沢実が、その宮坂静生について、「(信州の)地貌(詠者)」という造語を呈している。これらの造語の氾濫に接すると、「俳諧の益は俗語を正す也」(『三冊子』)とした俳聖・芭蕉を思わざるを得ない。       

芭蕉は、その俳諧七部集などを見ても、凡そ造語や奇想天外の句語などは使用していない。それは見事なもので、その連句などを見ても、三百年余も経た今日においても、その句語自体は、意味不明というものは、皆無に等しいのである。             

勿論、芭蕉は漢詩や和歌などの当時の和漢のいずれの分野にも造詣が深く、そのための校注を見なくはならないものがあっても、実に、厳格な句語の選択に意を用いてるというのが、詠み手にも伝わってくる。しかし、その芭蕉は、中世の和歌(連歌)の「雅(よそいき)語」を近世の俳諧(連句・発句)の「俗(ふつう)語」に、方向転換させたその張本人でもあるのである。即ち、芭蕉は、当時の民衆の「俗なる考えとその俗語」に精通し、それを文学(俳諧)にまで高めた人であり、その意味では、その「通俗(俗に精通している)」の代表選手でもあったのだ。
 そして、その芭蕉より三百年余も経た今日において、美島・静生・実らが、その造語を駆使するということは、どうも、この「通俗(俗に精通している)」なるものを狙って、その俗なるエネルギーを我がものにしようという現れのように思えてならないのである。 しかし、これまた、芭蕉の「俳諧の益は俗語を正す也」をめぐっての「高悟帰俗」の、その実態は、藪の中であり、これもまた、聖域として、それはミステリーにしておくことこそ肝要のことと思わせるほどに、得体の知れないミステリーの世界なのだ。とにもかくにも、博覧強記でなる石田が「私の鑑賞力不足」と嘆いた、この美島の「山の昼なまけ」というようなものには、近寄らないのが無難なのかも知れない。       

④「俳枕」に関しての謎                             

○けぶりつつ栃木の藤も咲くころぞ                 (小浜杜子男)

○栃木にもいろいろ雨のたましいもいたり               (阿部完市)

○栃木にいたぞうれし酒焼日焼け顔                 (鈴木六林男)                     

平畑静塔の第三句集『栃木集』(昭和四六年刊行)の、栃木俳壇、いや、日本俳壇に与えた影響は大きい。この『栃木集』の前後にして公表された、その「狩猟論」について、石田は「農耕意識を根底にもつ俳句の世界を、狩猟民族の感覚でとらえようとする静塔氏の『狩猟論』は、下野人が無意識にもつ美意識を明文化したものと解釈して、私(石田)はむしろ喜びにふるえたことを記憶している」と記述している(昭和六一・一)。            これは、静塔の俳論の一つの「狩猟論」についての石田の記述であるが、その『栃木集』についても、これと、全く同じ記述が許されるであろう。           
 そもそも、それまでに、県名や市町村名のような題をつけた句集というのは皆無に等しいであろうから、この静塔の第三句集は、静塔の句集の中でも異色だし、日本俳壇の中を見渡しても、題、そして、内容とも、異色のものといえるであろう。          

掲出の三句、色々な鑑賞の仕方が可能であろうが、この三句とも、静塔の、その第三句集『栃木集』を意識しての作句と思えてならない。                
 なかでも、その二句目の、阿部完市の句について、石田は「地名の中に現地と対比して読むことよりも、一つの言葉として呪術的なはたらきを誘い出す役割に相応しいものが存在する」との評を下している。「栃木」という言葉に、石田のいう「呪術的」なものの誘発は、それこそが、静塔の第三句集『栃木集』が持つ魔力とも思えるのである。                
 しかし、「栃木」というのは「俳枕」であろうか。「俳枕」というのも、これまた、俳人特有の造語なのであろうが、その造語の意味する趣旨の範囲内においてでも、「栃木」というのは、「俳枕」なるものとして理解するには、まだ、成熟したものではなかろう。 栃木県関連の「俳枕」といえば、それは、「遊行柳」であり「室の八嶋」であり、それらの「歌枕」と重ね合わさって理解されるものであろう。               

そもそも、「歌枕」に対置して「俳枕」という言葉を、ことさらに、取り上げること自体、どうにも、俳人特有の「造語」気の臭気が匂ってならないのである。「歌枕」というのは、それこそが、狩猟時代・農耕時代にも連なる日本民族の「地魂」(これも造語かも知れない。反省が足りないか?)の言語的な表現ともいえるものであろう。「俳枕」などというものは、たかだか、芭蕉以後の、三百年程度の歴史で、悠久の歴史を有する「歌枕」と、肩を並べようとしても、これは、俳諧特有の「滑稽」の一具現化と思われるかも知れない。           

とまれ、季題の本意の歳時記として名高い河出文庫『新歳時記』(全五冊)の別巻の『俳枕』(全二冊)の編者である平井照敏の「俳枕」の解説が、その意を尽くしているとは思われるのだが、どう見ても、素人を十分に満足させるものではないのである。大体、「俳句を作る」ことを「句を作る」ということはあっても、「俳を作る」という人にお目にかかったことがない。それなのに「句枕」といわず「俳枕」というのは、土台何処かに無理があると思えてならないのである。                   

これは、ミステリー(謎)というよりも、クエスチョン(?)ともいう分野とも思われてくるのである。            


続けて「俳枕」に係るクエスチョン(?)                     

「いま『俳枕の時代』だという。耳馴れない言葉だが、和歌における歌枕と同じ、俳句に詠み込む名所旧跡--言うなれば詩的活力に富んだ地名と思えばいいようだ」と石田は記している(昭和六二・四)。俳句歴半世紀以上の石田が「耳馴れない」というように、何時の間にか「俳枕」という語呂の悪い言葉が認知されようとしている。 

あの『俳文学大辞典』には、この「俳枕」について、どうにも古今東西異論を唱えるのもはばかるような碩学者・尾形仂が担当しており、この尾形仂と平井照敏との強力コンビは、これは、「俳枕」という言葉を定着させようとする何ものでもないと思われるてくるのである。      
 その尾形仂の解説文は次のとおりである。「和歌名所としての歌枕に対し、俳諧の目で発見され、またとらえ直された地名をいう。俳枕の語は延宝八年(一六八〇)刊の幽山の撰集の書名に見え、幽山はこれを『能因歌枕』から得たものという。空想の地誌としての歌枕に対し、俳枕の特色は実地体験に基づき、その風土の本質的情感をとらえたものである点にある。季語が時間軸に即して日本人に共通の詩情を喚起する力をもつのに対し、俳枕は空間軸に即して作者の詩情に点火し、読者との共通理解を支える効力をもつ。」    

この尾形仂の解説と河出文庫『新歳時記』の別巻・『俳枕』の編者の平井照敏の「俳枕」の説明も、ニュアンスの違いはあれ、同一趣旨の解説と理解できるのであるが、それらの解説の後で、平井は次のような含蓄のある解説を続けるのである。         

「芭蕉は、とりわけ『おくのほそ道』の旅で、歌枕の地を訪ね、古歌を思い出しながら、実際の眼前の景を眺め、感動をあらたにした。そこには、まだ俳枕という名こそなかったが、歌枕をうまれかわらせ、一変させる新鮮な土地の情感が発見されたのである。そして、そこに、歌枕ではなく俳枕とこそとなえねばならぬ、あたらしい価値がうまれたのである。」                  

ここなのである。「歌枕ではなく俳枕とこそとなえねばならぬ、あたらしい価値がうまれたのである」とするのは、それは、「俳枕」を定着させようとする人達の、一方的な感慨ではなかろうか。           

 およそ、芭蕉は、『野ざらし紀行』・『鹿島詣』・『笈の小文』・『更級紀行』・『おくのほそ道』の、その歌枕巡礼の旅も、古来の歌枕の土地の、ほんの一部分を巡礼したに過ぎないのだ。その芭蕉の名を借りて、北は北海道から南は沖縄まで、更には、海外詠まで視野に入れた「俳枕」を設定するということは、そもそも、芭蕉の歌枕巡礼の生涯を曲解しているとも思われてくるのである。         

同じ、『俳文学大辞典』の「歌枕」には、「連歌師・俳諧師らの旅では、歌枕ゆかりの土地での詠作が多く、宗祇『白河紀行』、芭蕉『おくのほそ道』はその例。俳諧・俳句の名句で、記憶に残る地名を俳枕と称するのも一種の歌枕といえる」(両角倉一解説)との記述となっている。 
 どう見ても、「俳枕」は「歌枕」の中に包含されるべきものであって、芭蕉の出現により「俳枕」を独立させることは、現在の「吟行詠」花盛りの風潮を助長するために、芭蕉という権威を利用しているやにも思えてならないのである。              

そもそも、「俳枕」を堂々と名乗った出版物は、『俳枕(全七巻)』(朝日新聞社・昭和六二より)と、その二年後の『大歳時記』三巻「歌枕俳枕」(集英社・平成元年)と平井は指摘している。            

これらの三番目のものとして、平井照敏編の『俳枕』は、非常にコンパクトな形で登場し、大変に便利なものであるが、その平井が「まだ未熟の施行錯誤である」と表明しているとおり、短詩型文学に携わっている多くの人達(短歌・川柳の関係者も含めて)の協力を得て、今後、大いに論議して欲しいところのものなのである。 
 さもないと、ますます、短詩型文学の、それぞれが、それぞれの垣根をめぐらし、その交流こそ望まれるのに、ますます、離れていってしまうという結果すら、予想されるのである。言葉をかえていえば、「俳枕」は、短詩型文学の中で私生児になる恐れなきにしもあらずなのである。
 即ち、「俳枕」というゾーンは、ミステリー・ゾーンというよりも、どうにも、クエスチョン(?)・ゾーンに属していると思われるのである。