(昭和五三・五四)

○ 炎天の幹に父居る普段かな

石田よし宏氏の処女句集『炎天の幹』の題名はこの句に由来があるのだろうか。とすれば、氏にとってはこの一句は忘れ得ざるものということになろう。氏の父の句は、昭和五十一年以降の後半の頃から多く出てくる。

○ 枯野にて眼鏡きれいに父来る  (昭和五一・五二)

○ 咲き終へし桃なり父の広額   ( 同 )

○ 冬樫の日向や父の世辞を聞く  (昭和五三・五四)

○ 旱なり父の声澄む蔵の中    ( 同 )

○ 藪椿父のをんなを敬へり    ( 同 )

○ 鳥帰る頃の教室父が居て    ( 同 )

どの句も、氏の句の中にあっては比較的取り付き易い句と言えるてあろう。氏の年譜から見ると、昭和五十三年には「鷹」俳句会功労賞を受賞した年で、年齢的にも五十歳半ばと油の乗り切った頃といえるのかも知れない。そして、ここで一つ気がつくことは、よし宏俳句においては、「父」の句が多く、「母」の句をほとんど目にしないという事実についてである。そして、これらのことは、氏の境涯性と深くかかわるものなのかも知れない。  しかし、氏の俳句は、これらの境涯性と関係することを拒否して、「作品の上に作者を置いて鑑賞する」ということを排斥して、いわゆる「境涯俳句がいよいよ閉鎖的な世界に逼塞させてしまう危険性を内包している」(藤田湘子)という立場を堅持しているように思えるのである。これらのことについては、この処女句集『炎天の幹』の三部構成から見てみると、昭和二十二年以降の初期作品が収載されている「石橋病院」においては、石田波郷氏らの「境涯俳句」的な世界での作品が多く、続いて、昭和三十一年の「風」(沢木欣一主宰)入会以降は「社会性俳句」的世界に移行して、昭和四十五年にそれらの「社会性俳句」とも訣別して、「鷹」(藤田湘子主宰)に入会して、「私詩からの脱出」・「ことばの自立性や俳句の抒情性・風土性の探求」(藤田湘子)や「『イメージ』の形象とそれらの『暗喩(メタファー)』としての強調」・「『創る自分』の設定」(金子兜太)などでの作句活動に転換しているように思えるのである。

これらのことを念頭において、掲出の「炎天の幹に父居る普段かな」という句の鑑賞に当たっては、「鷹」主宰の藤田湘子氏の、その「序」において、「巧まくて手強い俳人というのが、私の描いている石田よし宏像である。『炎天の幹』という題名には、私はそうした期待を受けとめた決意を感ずることができる」という指摘が一つの示唆を与えてくれるように思えるのである。即ち、「炎天の幹に父居る」とは一つの「暗喩」であって「何時も炎天下に晒されているような樹の幹、その樹の幹に逃げも隠れもせず、その幹のように居る手強い父としての存在(それは、とりもなおさず自分を含めての男性の存在)」というようなイメージであって、そして、それは、「何時の世においても、格別特別視されるものではなく、『普段』(日常・平素・平生)であることだ」というようなことが、この句の作意なのだろうと解したいのである。そして、その他の掲出の「父」も、作者個人の「父」という存在よりも、「暗喩」としての「父」として鑑賞されるべきものと理解をしたいのである。

(昭和五五)

○ 隠亡の曇りに映えて山椿   

昭和五十三年に、石田よし宏氏を始めて俳句の世界へと導いた「風」の主要同人であり、個人的に主治医でもあった木村三男氏が世を去った。そして、その年に、よし宏氏は「鷹」俳句協会功労賞を受賞したということは、木村三男氏に匹敵する一人の「下毛野」(野州・栃木県)の俳人の誕生を意味するものであった。そして、その木村三男氏の句集『下毛野』にも、昭和四十六年作の、次の「隠亡」の句がある。

○ 隠亡がかくし持ちたる葱の束 (木村三男)

「隠亡」は死者の埋葬などの弔いの世話をする人のことで、三男氏の句はその隠亡が弔いの世話賃の代わりに頂いた葱束を目立たないように隠して持っている姿を医師を職としている人の冷静沈着な目でとらえ、それがシニカル的な「俳諧味」(滑稽感)の世界へと誘うような句作りである。それに対して、よし宏氏の掲出の句は、「隠亡」という語感の持つ「どんよりとした曇り」の陰鬱感に比して真っ赤な「山椿」を配置して、この句に接する人にさまざまなイメージを起こさせるという句作りなのである。そして、三男氏が、事実ありのままの即物的リアリズムの把握とそれをストレートに提示する手法に比して、よし宏氏のそれは事実ありのままの即物的なリアリズムを基礎として、それをそのまま提示せずに、例えば、この掲出の句ですれば、「隠亡の曇り」という暗喩的表現の非ストレートな手法を用いているのである。これらの句に接したときに、俳人・石田よし宏氏は、その俳人としてのスタートにおいて、俳人・木村三男氏の即仏的リアリズムの手法を学びとり、そして、

昭和四十五年から昭和五十五年の「鷹」所属の「鷹十一年」において、「鷹」主宰の藤田湘子氏の言葉でするならば、「巧まくて手強い俳人」への変貌を遂げたということになろう。

ここで、この「鷹十一年」のよし宏氏の歩みということを振り返りながら、氏の俳句の特質と心に残る句の幾つかについて提示しておきたい。

よし宏俳句の特質の第一は「身辺に発生する対人関係の機微を剔出(てきしゅつ)して一篇のドラマを構築」する、その「巧みさ」と「手強さ」にある。

○ 炎昼の辻の声聴く盲かな     (昭和四五・四六)

○ 一物を曇らせて拭く里神楽    (昭和四七・四八)

○ 梅雨呆けの髪ひめごとの匂ひかな (昭和四九・五〇)

○ 妻痩せて来し月明の杉菜原    (昭和五一・五二)

○ 竹百本僧がみてゐる野分かな   (昭和五三・五四)

○ 花種や問はねば言はぬ男にて   (昭和五五)

よし宏俳句の特質の第二は「誰もが見ていて感じ取ってる筈の日常の出来ごとを十七字に切り取る言葉遊び」の、その「巧みさ」と「手強さ」にある。

○ 足の裏ひらく昼寝の深みにて    (昭和四五・四六)

○ 写真顔良くて狐火を信ず      (昭和四七・四八)

○ 妻といふ手塩の一つ朴の花     (昭和四九・五〇)

○ 小説のうしろを隙間風の猫     (昭和五一・五二)

○ あきはばらかあきばがはらか夏痩せる(昭和五三・五四)

○ 腹八分にて立秋の墓地に居り    (昭和五五)

よし宏俳句の特質の第三は、「巧みさ」と「手強さ」に背後に潜んでいる「水の如く澄んでいる熱情」(横山白虹の『芝不器男句集』の「跋」)にある。

○ 干草に沈みて刃物めく少年      (昭和四五・四六)

○ 獣園にまぎるる寒さ一つ負ひ     (昭和四七・四八)

○ 水呑めば刈り場のほかの芦みえて   (昭和四九・五〇)

○ 秋の灯を夜中に点けて眠りをり    (昭和五一・五二)

○ しばらくは蕗畑に居り通夜のこと   (昭和五三・五四)

○ 山鳥を飼ひて寡食のこころざし    (昭和五五)