(昭和四七・四八)

○ 白壁に殺意たのしむ大根吊り

農家の白壁の土蔵、そこの軒下に収穫した大根を吊るしていく。この作業は一人ではなく、二人・三人との協同作業でもある。洗う人、運ぶ人、吊るす人、そして、秋の陽だまりの中で、吊るされていく大根がいろいろな影絵を白壁に映していく。そして、その白壁に映し出されていく影絵を見ながら、何かしら「殺意」のようなものを感じとって、そして、さらに、その「殺意をたのしむ」というようにイメージが拡がっていくのである。こういう句は、氏の師である木村三男氏や氏の畏友の増山美島氏の「おかしみ」を誘うような「俳諧味」のする句作りとは、最も遠い、そして、最も冷めた、現代人のニヒルな眼すら感じられるのである。そういう意味では、三男氏や美島氏が「俳諧追求派」とするならば、「詩性追求派」ということがいえるのかも知れない。

○ 学問の灯と大根吊る灯が混じる

氏の俳句はしばしば「前衛俳句」の「難解俳句」ということで、特に、「ホトトギス」系の「花鳥諷詠派」からは異端視されがちなのであるが、掲出の句は「前衛俳句」とか「難解俳句」のレッテルを外して、俳句の常套手法の一つの「学問の灯」(人為的なもの)と「大根吊る灯」(非人為的なもの)との二物衝撃の句作りで、その二物衝撃に視点が行っている作者の姿勢を素直に理解すれば、こと足りることなのであろう。

○ 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ  (山口誓子)

この誓子の句は大正十三年の「ホトトギス」の高浜虚子氏の指導下の頃の作で、誓子氏の初期の頃の代表作の一つである。そして、よし宏氏の掲出の句の「学問の灯」という切り出しにも、この誓子氏の句がイメージ下にあることは明瞭なところであるが、その誓子流の自画像的な句作りと一歩距離を置いて、その「学問の灯」と「大根吊る灯」とを組合わせて、そこに、何かしらのドラマを感じさせるよう句作りなのである。そして、句意はということになると、誓子氏の句は自明のものであるが、よし宏氏のものは、それらのものを詠み手に全て委ねてしまうのである。ただ、よし宏氏の掲出の句は、誓子氏のそれを前提にしていることからして、やはり、人生の侘びしさ・淋しさ・厳しさということを主題にしていることは十分に詠み手に伝わってくるということであろう。

○ 水枕狐の細き背筋思ふ

平成元年十二月二十一日の朝日新聞の栃木版に、石田よし宏氏は「新を求むる心を大切にしたい」という題で、長文の「栃木俳壇」の回顧記事を載せている。その記事の中で一通の匿名の投書のことに触れられていた。

「『前略、石田よし宏先生に選者が代わられたことが何とも不満である一人です。絵でいえばビカソ、マチス等の素晴らしさを理解しない者、時代を知らぬ者とお笑いになるでしょうが、老人には何とも馴染めぬ句ばかりです。季語は一応あるようですが、選者吟はもちろん、選ばれた句がほとんど首を傾げてしまうような句ばかりで、この頃は投句も嫌になりました。現代俳句ではなく昔からあるような表現をして下さる方が望ましいと思います。早々』。この投書と前後して前任の故増渕一穂氏の夫人から電話があって、『投句者の顔ぶれが以前とあまり変わらないので喜んでいます』というのであった。花鳥諷詠の選者と人間諷詠の選者の選句が同じはずがないのは当然であって、この、投句者は同じ、選句が違うというところが何とも言えぬ妙味ではなかろうかと思う。たとえ伝統文芸であっても俳句は創作なのだ。奇をてらう必要は毛頭ないが、新を求むる心を大切にしたい。」

この氏の記事を読みながら、いろいろのことを考えさせられたのである。この記事の匿名の方の投書の趣旨も十分に理解できるし、また、それに対する、よし宏氏の考え方も十分にできるのである。

この匿名の方は「新を求むる心よりも、今まで守ってきたものを大切にし、その世界の中で創作活動をしょうとして、それを打破されることを極度に警戒し、反発している」ということのように思われる。一方、よし宏氏は「今まで守ってきた大切なものから、一歩踏み出して、新しいものに挑戦し、そして、その新しさの挑戦が、新しい自分の再発見に連なり、そのことが、いかに、自分の創作活動の枠を拡げることになるものか」ということを言いたかったのかも知れない。

さて、掲出のよし宏氏の句は、この匿名の投書の方には忌み嫌われる部類のものであろう。そして、もし、その匿名の方が、よし宏氏の「新を求むる心」に目覚め、新しい別の己の世界を再発見したならば、そして、その再発見した別次元での視点で、このよし宏氏の句を鑑賞したならば、また、別な世界が拡がってくるように思えたのである。

○ 水枕ガバリと寒い海がある (西東三鬼)

この三鬼氏の句は昭和十一年の「新興俳句運動」が最盛期にさしかかった頃の作である。この句について、三鬼氏は自伝の『俳愚伝』の中で「この句を得たことで、私は私なりに俳句の眼を開いた。同時に俳句のおそるべきことに思い到った」と述べ、自らこの一句を己の開眼の一句としたのであった。この三鬼氏の言う「俳句のおそるべきこと」とは、「水枕」という即物的な「物(モノ)」を通して、「日常」と「超日常」との関連性とその関連性を通して無限の時間と空間を、たった十七音字の俳句という世界の中で把握できるという「おそるべき」ことに思い到ったのであろう。そして、よし宏氏の「水枕」の句もこの三鬼氏が思い到った「おそるべき」こと、「日常」(実生活)と「超日常」(詩的空間)との関連性を探り当て、そこに無限の人間と自然との営みのようなものを表出したかったのではなかろうか。そして、よし宏氏の俳句は「前衛俳句」というよりは、この匿名の方が言われるように、まさしく「現代俳句」の「現代における己の生き様」を創作の主たる対照にしているということであろう。

(昭和四九・五〇)

○ 末黒野の雨にむらなき臼明り

「末黒野(すぐろの)」は初春の季語で野焼きしたあとの黒々とした焼き跡が残っている焼け野原のことである。「粟津野の末黒の薄(すすき)つのぐめば冬たちなづむ駒ぞ嘶ゆる」(『後拾遺集』)など遠く和歌の時代から題詠(「末黒の薄」)として取り上げられてい古典的なものの一つである。「むらなき」は「叢なき・群なき」などの「群生した草叢なき」とも、「斑なき」の「まばらのなき」とも、その両方の意が掛けられているようにも思われる。「臼明り」は「臼づく・春く、明り」で「夕日が山に入ろうとする、その明り」の意で、これまた「薄明り」の「薄(うす)」が掛けられているのかも知れない。この句は、よし宏氏の言葉でするならば、よし宏氏が目指す「人間諷詠」の句というよりも、自然との「存問」を基調としての「花鳥諷詠」の句に属するものとして鑑賞することもできよう。

○ 暁の雨やすぐろの薄はら (蕪村)


この蕪村の句は安永五年の六十一歳の作である。句意は「明け方春雨が降りしきる。明けるにつれ、昨日の野焼きに焦げた薄原が雨に洗われて黒々と一変した顔をのぞかせる」(『蕪村全集(一)』)。蕪村の句が「暁の朝の末黒野」の景であるならば、よし宏氏の句は「臼明りの夕方の末黒野」の景ということになる。そして、よし宏氏の関心事は何時も自分が生を享受している「現代」そのものにあって、「芭蕉・蕪村・一茶」などの俳諧の「古典」を追求しての痕跡というのは見受けられない。しかし、掲出のよし宏氏の「末黒野」の句を一つ取っても、氏が「芭蕉・一茶」流れよりもより多く「蕪村」の耽美主義的な流れの俳人であるということが察知されるように思われるのである。そして、氏の師の木村三男氏や畏友の増山美島氏は「耽美主義」的な傾向を極度に排斥して、「省略に省略を重ねた俳諧が本来的に有していた俳諧性・滑稽性」を重視して、どちらかというと、庶民生活の哀感を綴った「一茶」派とするならば、よし宏氏のそれは、「創造性・虚構性」を追求し、「俳諧性・滑稽性」よりも、より以上に高踏主義的な「詩性」を重視し、その意味では「蕪村」派の流れの俳人として、同じ、木村三男氏の門下の増山美島氏とは本質的に一線を画しているように思えるのである。

○ 枯山に鳥突きあたる夢の後 (藤田湘子)

「鷹」主宰の藤田湘子の俳句観については、「鷹」の論客家で代表的な作家の一人でもある宮坂静生氏の「湘子の自然」という俳論の中で、その一端が窺い知れる。

「桑原武夫の『第二芸術・・・現代俳句について(昭和二一・一一)』以来俳句の本質究明と相俟って論じられてきた『天狼』の根源俳句、戦前からの赤黄男や重信のモダニズムの運動、『風』や『寒雷』での社会性俳句、その発展としての造詣俳句論、前衛俳句まで、戦後の社会状況を大きく投影しながら、一途に、性急に論じられてきたのは、いかに俳句を近代の詩たらしめるかとい俳句近代詩論であったといえよう。湘子の主張や俳論も、そのかぎりを出るものではない。むしろ、誓子の写生構成説・・・想像力の問題、兜太の造形俳句論・・・創る自分の存在、など戦後のもっとも目ぼしい近代詩化の方法論をうちにとり入れようとした点、湘子には、自分のうちからつき動かされるようにして、求めた俳句を近代詩に近づけようとした積極さが目立っていた。もとより、この時期の湘子の句は、心情がよく具象化され、内側(こころ)と外側(もの)とのあわいに像(かたち)を立たしめるという、初期の『途上』や『雲の流域』での情がまさった句作りを一歩ぬき出た、新しい地平を臨ませるものになっている。だからこれらの句は、現代詩とどこでその内質に異なる詩情をもっているのだろうかという、俳句存立への本質的疑いをいだかせるものでもあった。息をひきつめて、しずかに、美意識を純粋にし、抽象化していった、張りつめた思いが表された句の美しさに、やがて作者自身、『やせ』を感じるようになる。それは、私には、俳句を近代の詩たらしめようとした戦後の俳句界の舵取たちの新たな模索の出発と思われるのである。」

長い引用になったが、この宮坂静生氏の「湘子論」が、即、「石田よし宏論」にも通ずるように思われるのである。それが故に、昭和三十一年に「風」に入会して、昭和四十五年に、その「風」を退会して、藤田湘子氏が主宰する「鷹」に入会した、その理由のことごとくが、この宮坂氏の「湘子論」の中に存在するように思えるのである。石田よし宏俳句の根底には、「いかに俳句を近代の詩たらしめるかという近代詩論」が、その底流に流れている。

○ はりがねの柵の行先春まつり

石田よし宏氏の「はりがねの柵」の句である。「はりがね」は針金のことで、他の意のあるものは想像が及ばない。何故、「はりがね」と平仮名の表示にしたのかも容易に想像が及ばない。そもそも「はりがねの柵」ということに着眼しての他の俳人の句もまた全く想像も及ばない。その「はりがねの柵の行先」の「行先」は「向かって行く目的地」のような意で、ここでは「はりがねの柵」を擬人化している用例なのかどうかも、これまた容易に想像が及ばない。また、「春まつり」は春期に行われる祭礼の「春祭」で、この「春祭」を季語としての例句はよく目にするところのものであるが、何故、「春祭」ではなく「春まつり」の平仮名の用例にしたのかも、これまた、いろいろと考えさせられる。

○ 春祭鴉も鳶も山寄りに        (藤田湘子)

○ 永き日のにはとり柵を越えにけり   (芝不器男)

湘子氏の「春祭」の句は、その年の豊作などを願っての山村などで行われる春祭などがイメージとして浮かんできて、よし宏氏の句よりは違和感はない。そして、次の不器男氏の句は、「ホトトギス」の総帥・高浜虚子氏に絶賛された「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」と共に、流れるような美しい韻律の句で、春になってめっきり日永になっていく「永き日」の句として忘れ得ざる一句ということができよう。そして、よし宏氏の掲出の句が、その用語の選択はひとまず置いて、そのリズム感は不器男氏のそれに近いように思われるのである。即ち、よし宏氏は、この掲出句については、そのリズム感の重視ということを念頭において作句しているように思えるのである。この不器男氏の句集の「跋」に、氏の友人であった俳人の横山白虹氏が次のような詩を寄せている。

「  焔はえんえんと燃えあがり

   水はれいろうと澄んでゐる

   水はえんえんと燃えあがり

   焔はれいろうと澄んでゐる

  

  あの絢爛たる句風にそして基底に

  水の如く澄んでゐる熱情に。   」

よし宏氏の俳句の特徴の一つとして、この横山白虹氏の「水の如く澄んでゐる熱情」というようなものを、それは「研ぎ澄まされた感性」という言葉に置き換えても差し支えないものと思われるのだが、句意そのものよりなどよりも、その種のものが思い起こされてくるのである。そして、それは、宮坂静生氏の言葉でするならば、「息をひきつめて、しずかに、美意識を純粋にし、抽象化していた、張りつめた思いが表された句」という言葉に置き換えてもよいのかも知れない。そして、何よりも、よし宏氏の掲出の句のような理解においては、氏の主題に対する「感性」ということと、その「感性」により具象的なものより抽象的なものを意図して作句しているということを念頭において、言葉それ自体よりも、氏のそのときの作句の「張りつめた思い」のようなものを感じ取るという姿勢が、氏の句の鑑賞には必須のように思えるのである。この掲出の氏の「張りつめた思い」というものは、イメージとしては、掲出の湘子・不器男両氏の句の延長線上に見出せるものであろう。

○ 晩年は合歓の眠りに耐うるかな

「俳句はなるべく調子の整うたのがよい。難解な句、晦渋な句は頭には這入りにくい。そればかりか明快な句、流暢な句は音調から来る快感が詩情を助ける。」(高浜虚子『虚子俳話』)

よし宏氏の俳句は、この虚子流の言葉でするならば、「流暢な句」ではあるが決して「明快な句」ではない。また、「晦渋な句」ではないが、決して安易な句ではなく、どちらかというと、一種の戸惑いを覚えるような「難解な句」が多いことも事実であろう。そして、「直喩」(シミリ)の比喩よりも「暗喩」(メタファー)の比喩の例が多いのも一つの傾向と言って差し支えなかろう。それは、この掲出の句でするならば、「合歓の眠り」という擬人化的な暗喩の表現がそれであり、その暗喩の表現が、いわゆる、作句するときの氏の「張りつめた思い」を表現するのに、より引き締まった作用をしていて、それが氏の句作りの得意とするということなのである。

○ 人消えしごとく薄暑の鉄置場   (直喩)

○ 梅雨呆けの髪ひめごとの匂ひかな (直喩)

○ 日盛りの紺とたたかふ鳥飼へり  (暗喩)

○ 青羊歯に日当る父と組むことなし (暗喩)

○ 蟇ときに平たく顎剃りぬ     (暗喩)

掲出の「合歓の眠り」の句に前後しての「直喩」の句と「比喩」の句の例であるが、直喩の句というのは、比較的にそのイメージが鮮明になるが、暗喩の句はどうしてもその句に接する人にその暗喩に対する共感性を強いることになり、その暗喩が何らの共感性を生じせしめないときには、「難解俳句」という名のもとに、拒絶されてしまう傾向にある。しかし、その拒絶の前に、「その暗喩に作者は何を託している」のかということを、いわば、

「拈華微笑(ねんげみしょう)」(以心伝心)的に探る必要があり、その探りを通して、作者の作意の意図が垣間見えたときに、そこに、宮坂静生氏のいう、その作者の「内側(こころ)と外側(もの)とのあわいに像(かたち)」が垣間見え始めて来るということなのであろう。

よし宏氏の句の多くは、この「内側(こころ)と外側(もの)とのあわいに像(かたち)」を立たしめるかという、その句に接する人には厄介な世界での句作りであるということは、まずもって念頭に置くべきことなのであろう。掲出の「合歓の眠り」の句は、よし宏氏の畏友・増山美島氏の処女句集『亜晩年』の次の句などが、その鑑賞の示唆を与えるものであろう。

○ 合歓の花ちるごわごわの兵の服 (増山美島・昭和一八~四四)

○ 秋耕の見えて眠しや亜晩年   (増山美島・昭和四八~五〇)

(昭和五一・五二)

○ 人ごゑのごとく雨ふる稲架明り

よし宏氏の代表句の一つである。昭和四十九年の俳句研究社主催の全国俳句大会で特選となった句である。なお、この句は、氏の処女句集『炎天の幹』の中心をなす「『鷹』十一年」の章の「昭和五一・五二」の中にも収載されている。この句は前述した「直喩と暗喩」の「直喩」の作例ということになろう。この句の主題は「雨降る稲架明り」であろうが、その前段の「人ごゑのごとく」という直喩が絶妙なのである。

○ 人声やこの道かへる秋のくれ  (芭蕉)

掲出のよし宏氏の「人ごゑの」には、晩年の芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」ま初案の句とされている掲出の句が思い起こされてくる。この芭蕉の「人声」の句について、加藤楸邨氏は「秋暮の道を帰ってくると人声がきこえる、寂しさの折柄であるから、人懐かしさがこみあげてきたといふやうな、寂寥に根を据ゑたほのかななつかしさを詠じたものと思はれる」(『芭蕉秀句』)と評釈している。よし宏氏には、とくに、芭蕉や蕪村や一茶などの古典ものを渉猟した足跡というものは感知されないが、刈田に稲架が架かる晩秋の頃の寂寥感と、それが故の「人懐かしさ」の表出としての「人ごゑのごとく」の比喩として、芭蕉の秀句すら連想されるような、強い響きを有している。

○ 遙かにて架けし晩稲の重さ見ゆ (木村三男)

「稲架」については、よし宏氏の師の木村三男氏の掲出の句のように、よし宏氏等が好んで用いる題材の一つでもある。そして、「稲刈」・「稲車」・「稲積む」・「稲干す」・「稲掛」・

「稲塚」・「藁塚」・「稲打」など一連の農作業関連のものは、特に、三男氏が執拗に追い求め続けた「俳句と風土」と深いかかわりあいを持つものであった。

○ 板橋や春もふけゆく水あかり  (芝不器男)

○ 樺の中くしくも明き夕立かな  ( 同 )

「明り」については、横山白虹氏が「水のごとく澄んでいる熱情」と評した『芝不器男句集』の不器男氏の掲出の句の「あかり」・「明き」などを思い起こさせるものがある。これまた、よし宏氏が、特段芝不器男氏の句を意識していたという足跡は寡聞にして耳にしていないが、資質的に非常に近似値のものを強く感じるのである。

この「人ごゑのごとく雨降る稲架明り」の句が収載されている「昭和五一・五二」には、この処女句集『炎天の幹』の中でも、よし宏氏の佳句ともいえるものを多く目にすることができる。

○ 風をきく空稲架の夜は酒弱し

○ 夕方のあやふき声の杉菜かな

○ 妻痩せて来し月明の杉菜原

○ 秋の灯を夜中に点けて眠りをり

○ 風花の水補ひし麒麟小舎