石田よし宏「鷹」十一年と『栃木俳句会・月々のことば』の謎(その一)

石田よし宏「鷹」十一年

石田よし宏氏は平成元年の二月に、増渕一穂氏の後を受けて、朝日新聞栃木版の「栃木」俳壇の選者とならえた。永らく栃木県の俳句研究誌「鬼怒」の編集に携わられ、本県俳壇のまとめ役の一人でもある。

○ 人ごゑのごとく雨降る稲架(はざ)明り

この句は、昭和四十九年に、俳句研究社主催の全国俳句大会の特選の栄誉を受けた氏の句である。氏はともすると前衛的な俳句の作者として知られ、伝統的な俳句作者からは、いわゆる難解俳句と敬遠されがちなのであるが、この句にはそのような色彩はない。「人ごえのごとく」という比喩が実に巧みで、それが、「稲架明りの中で雨が降っている」という、一つのドラマの一場面を見るようなイメージの鮮明の鮮明な句である。

氏は、「栃木俳句会」という例会をもっており、それらについては、平成八年の「栃木俳句会『月々のことば』」として、昭和六十年から平成七年に至るまでのものが一冊にまとめられ、刊行されている。この図書の中で氏の俳句観は縦横無尽に語られており、伝統的な「ホトトギス」の流れの俳句とは一線を画した、氏が所属している現代俳人協会の前衛俳句の新しい俳句の追求という姿勢を一貫して崩していない。

氏は「風」の主要俳人であった、木村三男氏のもとで、畏友・増山美島氏とともにその指導を受けながら俳句活動のスタートをするが、昭和四十五年にその「風」を退会して、「馬酔木」の編集長を永らく携わっていた藤田湘子氏の「鷹」に入会する。そして、氏の作風はこの「鷹」において磨きがかけられ、今日に至っているように思えるのである。氏の第一句集『炎天の幹』は「石橋病院」・「俳句結社『風』」・「鷹十一年」の三部構成となっている。この「鷹十一年」の足跡を追うことが、即、栃木県の主要俳人の一人である、石田よし広氏の「俳句」の中枢を抉ることになるように思えるのである。そのような観点から、氏の「鷹」十一年の歩みとその心に残った一句、一句の鑑賞を試みることとする。

(昭和四五・四六)

○ 癒えしあと何せん枯野足元より

「鷹十一年」の冒頭の句である。「鷹」の主宰者・藤田湘子氏にも氏の畏友の増山美島氏にも「枯野」の句がある。

○ 牛の顔枯野へ向けて曳き出す  (湘子)

○ 枯野にて腹へる母を失ひし   (美島)

この三氏の三句の共通点は「足下より」・「曳き出す」・「失ひし」という座五(下五)に安定した「切字」や「韻字留め」を用いず、「字余り」・「字足らず」の破調や「用言留め」などをしているところにある。そして、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の芭蕉の絶吟以来、この季語の「枯野」は「俳諧・俳句」と相通ずる世界のものでもある。これらのことを念頭において、掲出の三者の三句を鑑賞するとき、「季語」の重視と「現実的・事実的用語」の選択との絶妙な取り合わせいう共通項を見いだすことができる。これらの絶妙な取り合わせというのは、三氏とも計算しつくした巧みな句作りを得意とするということを意味するのかも知れない。このように解して、よし宏氏の掲出句を見るとき、「病が癒えて、原点に帰って、これからの創作活動に取り組まんとする」、その決意表明の句のように思えてくるのである。

○ 身につけしゴムの悲しみ秋耕す

平成元年二月二十四日の朝日新聞栃木版に「栃木俳壇新選者石田氏に決まる」との見出しで、次のような記事が掲載された。

「前任の故増渕(一穂)氏が伝統俳句だったのに対し、石田(よし宏)氏は前衛俳句だが、『自分の心象を具象化する方向で俳句を作ってほしい。栃木俳壇に新しい風を吹きこめれば幸いです』と話している」。

ここで言う「伝統俳句」・「前衛俳句」という表現は甚だ曖昧なものの一つなのであるが、「伝統を重視する俳句」と「伝統の殻を破って新しいものを志向する俳句」との違い程度の理解に止めておきたい。とするならば、よし宏氏の目指す俳句は紛れもなく「前衛俳句」ということになろう。そして、それは、氏の言葉でするならば「自分の心象を具象化する方向で俳句を作ってほしい」と同一のことなのかも知れない。と同時に、この種の俳句は句意を理解すねということよりも、その作者に作意に着眼して、その一句を鑑賞するということが望まれるのかも知れない。

○ 次の雲がまたかげらしぬ秋耕を (木村三男)

○ 秋耕の見えて眠しや亜晩年   (増山美島)

掲出の二句は、よし宏氏の師にあたる木村三男氏と同じ三男門下の畏友・増山美島氏の「秋耕」の句である。これらの「秋耕」の三句を鑑賞するとき、三男氏の句は「着眼点の面白さ」、美島氏の句は「亜晩年、ああ晩年」という「造語感覚的な面白さ」にあるとするならば、よし宏氏の句は「身につけしゴムの悲しみ」という「比喩的・主知的な感性の鋭さ」ということにあり、三男・美島両氏の「俳諧味」(滑稽味)との句作りとは一定の距離をおいているように思えるのである。いずれにしろ、この三者は相互に知り尽くした同一世界での俳句活動でありながら、それぞれが、それぞれに独自の道を歩んでいるということを、まずもって指摘をしておきたいのである。