虚子の亡霊(六十)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その六)

(再追加)

☆『俳句の世界(小西甚一著)』には、再追加の章(芭蕉の海外旅行)として、前回に紹介した二句のほかに、金子兜太の句が、「前衛俳句」として紹介されている。それを前回の二句に加えると、次のとおりとなる。

「俳諧連歌の第一句である発句」

  子守する大の男や秋の暮          凸迦

「子規による革新以後の俳句」

短日やうたふほかなき子守唄        甚一

「前衛俳句」

  粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に  兜太

☆この兜太の句について、『俳句の世界(小西甚一著)』では、下記(抜粋)のとおり、詳細な記述があり、これがまた、この著書のまとめともなっている。

○戦後の「俳句史」として俳壇の「動向」を採りあげようとするとき、書くだけの「動向」がほとんど無いのである。もし書くとすれば、たぶん「前衛俳句」とよばれた動きが唯一のものらしい。前衛の運動は、俳句だけに限らず、ほかの文芸ジャンルでも、美術でも、演劇でも、音楽でも、舞踊でも生花でもさかんに試作ないし試演されたし、いまでもそれほど下火ではない。さて、俳句における前衛とは、どんな表現か。ひとつ例を挙げてみよう。

  粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に   兜太

 金子兜太は前衛俳句の代表的作家であると同時に俳壇随一の論客であって、ブルドーザーさながらの馬力で論敵を押しっぶす武者ぶりは、当代の壮観といってよい。右の句は、現代俳句協会から一九六三年度の最優秀作として表彰されたものである。この句に対し、わたくしは、さっぱりわからないと文句をつけた。そもそも俳句は、わからなくてはいけないわけでない。わからなくても、良い句は、やはり良い句なのである。ところが、その「わからなさ」にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の「わからなさ」であり、そのわからない理由は、現代詩における「独り合点」の技法が俳句に持ちこまれたからだ・・・とわたくしは論じた。それは『寒雷』二五〇号(一九六四年四月号)に掲載され、兜太君がどの程度に怒るかなと心待ちにするうち、果然かれは、期待以上の激怒ぶりを見せてくれた。同誌の二五二号(同年六月)で、前衛俳句は甚一なんかの理解よりもずっとよくイメィジを消化した結果の表現なのだから、叙述に慣れてきた人には難解だとしても、慣れたら次第にわかりやすいものになるはずだ・・・と反論したわけだが、この論戦の中心点を紹介することは、近代俳句から現代俳句への流れを大観することにもなるので、それをこの本の「まとめ」に代用させていただく。

○西洋における近代文芸と現代文芸の間には、大きい差がある。近代、つまり十九世紀までの詩や小説は、作者が何かの思想をもち、その思想を表現するため、描写したり、叙述したり、表明したり、解説したり、小説なら人物・背景を設定したり、筋の展開を構成したりする。享受者は、それらの表現を分析しながら、作者の意図に追ってゆき、最後に「これだ!」と断言できる思想的焦点、つまり主題が把握されたとき、享受は完成される。ある小説の主題が「愛の犯罪性」だとか、いや「旧倫理の復権」だとかいった類の議論は、作品のなかに埋めこまれた主題を掘り出すことが享受ないし批評だとする通念に基づくもので、近代文芸に対してはそれが正当なゆきかたであった。ところが、二十世紀、つまり現代に入ってから、作者が表現を主題に縛りつけない行きかたの作品、極端なものになると、はじめから主題もたない作品までが出現することになった。主題の発掘を専業とした従来の解釈屋さんにとっては、たいへん困った事態に相違ない。

○詩は、かならずしもわからなくてはいけないわけではない。しかし、その「わからなさ」が、とりとめのない行方不明では困る。「粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に」は、村野四郎氏が「詩性雑感」のなかで、

 これはぜんぜん問題にならない。作者自身、そのアナロジーに自信がないん

 です。

ですから、読んだ人もみんな、てんでんばらばらで、めちゃくちゃなことをいっている。ロ-ルシャツハ・テストというのがありましてね。紙の上にインクを落として、つぶしたようなシンメトリックなシミを見せて、「これは何に見えるか」と聞いてみて、答える人の性格をテストするという実験ですが、俳句もあんなインクのシミみたいじゃ困るんです。どうにでもとれるというものじゃ、困るんですよ。

と評されたごとく(『女性俳句』一九六四年第四号)、困りものなのである。村野氏の批評は、前衛の俳句の表現は、視覚的イメィジと論理的イメィジとを比喩(メタファ)の技法で調和させようとするものだが、それは、ひとつのものと他のものとの類似相をつかむこと(アナロジイ)に依存するから、もしアナロジイが確かでないと、構成はバラバラになり、アナロジイに普遍性を欠くと、詩としての意味が無くなる・・・とするコンテクストのなかでなされたものである。

○一九六〇年代から、解釈や批評は享受者側からの参加なしに成立しないとする立場の「受容美学」(Rezeptionsasthetik)が提唱され、いまではこれを無視した批評理論は通用しかねるところまで定着したが、その代表的な論者であるヴォルフガング・イザー教授やハンス・ロベルト・ヤウス教授は連歌も俳諧も御存知ないらしい。もし連歌や俳譜の研究によって支持されるならば、受容美学は、もっとその地歩を確かにするはずである。「享受者が自分で補充しなくてはならない」俳句表現の特質を指摘したドナルド・キーン教授の論は(一二〇ペイジ参照)、十年ほど早く出すぎたのかもしれない。去来の「岩端(はな)やここにもひとり月の客」に対して、芭蕉は作者白身の解釈を否定し、別の解釈でなくてはいけないと、批評したところ、去来は先生はたいしたものだと感服した(一八六ペイジ参照)。

○これは、芭蕉が受容美学よりもおよそ二百七十年も先行する新解釈理論をどうして案出できたのかと驚歎するには及ばないのであって、前句の作意を無視することがむしろ手柄になる連歌や俳譜の世界では、当然すぎる師弟のやりとりであった。 切れながらどこかで結びつき、続きながらどこかで切れる速断的表現は、西洋の詩人にと

って非常な魅力があるらしい。先年、フランス文学の阿部良雄氏が、一九六〇年にハーヴァード大学の雑誌に出たわたくしの論文について、ジャック・ルーボーさんが質問してきたので、回答してやりたいのだが・・・といって来訪された。わたくしの論文は、おもに『新古今和歌集』を材料として、勅撰集における歌の配列が連断性をもち、イメィジの連想と進行がそれを助けることについて述べたものだが、どんなお役に立ったのか見当がつかなかった。

○ルーボーさんの研究は、一九六九年に論文"Sur le Shin Kokinshu" としてChange誌に掲載され、それが田中淳一氏の訳で『海』誌(中央公論社)の一九七四年四月号に出た。そこまでは単なる知識の交流で、どうといったことも無いのだが、一九七一年、パリのガリマール社からRENGAと題する小冊子が刊行され、わたくしは非常に驚かされた。それは、オクタヴィオ・パス、エドワルド・サンギイネティ、チャールズ・トムリンソン、それにジャック・ルーボーの四詩人が、スペイン語・イタリー語・英語・フランス語でそれぞれ付けていった連歌だったからである。アメリカでも評判になったらしくて、フランス語の解説を含め全体を英訳したものが、すぐにニューヨークでも出版された。

○日本には、和漢連句とか漢和連句とかよばれるものがあり、漢詩の五言句と和様の五七五句・七七句を付け交ぜてゆくのだが、西伊英仏連句とは、空前の試みであった。これが酔狂人の出来心で作られたものでないことは、連歌の適切な解説ぶりでも判るけれど、それよりも、ルーボーさんが以前から連歌を研究し、連歌表現に先行するものとして『新古今和歌集』まで分析した慎重さを見るがよろしい。さきに述べたルーボーさんの論文の最後の部分は「水無瀬三吟」の検討である。連歌が、イマジズムの形成における俳句と同様、これからの西洋詩に何かの作用を及ぼすかどうかは、いまのところ不明である。しかし、仮に、受容美学と対応する新しい作品が西洋詩のなかで生まれたならば、日本の詩人諸公は、その新しい詩をまねる替りに、どうか連歌なり俳譜なりを直接に勉強していただきたい。とくに、芭蕉は、門下に対し「発句は君たちの作にもわたし以上のがある。しかし、連句にかけては、わたくしの芸だね」と語ったほど、連句に自信があった。再度の海外旅行を芭蕉はけっして迷惑がらないはずである。

(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「再追加の章」

☆長い長い引用(抜粋)になってしまったが、これでも相当の部分カットしているのである。そして、そのカットがある故に、この著者の意図するところが十分に伝わらないことが誠に詮無く、その詮無いことに自虐するような思いでもある。これまた、

是非、『俳句の世界(小西甚一著)』に直接触れて、「俳諧(発句)」・「俳句」・「前衛俳句」にどの探索をすることをお勧めしたいのである。これが、この「再追加」の要点でもある。

☆ここで、当初の掲出の三句を再掲して、若干の感想めいたものを付記しておきたい。

「俳諧連歌の第一句である発句」

  子守する大の男や秋の暮          凸迦

「子規による革新以後の俳句」

短日やうたふほかなき子守唄        甚一

「前衛俳句」

  粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に  兜太

 この三句で、まぎれもなく、兜太の句は、「子規による革新以後の俳句」として、「俳諧連歌の第一句である発句」とは「異質の世界」であることを付記しておきたい。

 そしてまた、「連歌が、イマジズムの形成における俳句と同様、これからの西洋詩に何かの作用を及ぼすかどうかは、いまのところ不明である。しかし、仮に、受容美学と対応する新しい作品が西洋詩のなかで生まれたならば、日本の詩人諸公は、その新しい詩をまねる替りに、どうか連歌なり俳譜なりを直接に勉強していただきたい」

ということは、小西大先達の遺言として重く受けとめ、このことを、ここに付記しておきたい。

(追記)『俳句の世界(小西甚一著)』の著者は、平成十九年(二〇〇七)年五月二十六日に永眠。享年九十一歳であった。なお、下記のアドレスなどに詳しい(なお、『俳句の世界(小西甚一著)』については、その抜粋について、OCRなどによったが、誤記などが多いことを付記しておきたい)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E7%94%9A%E4%B8%80